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ハザール王国

 「ウクライナ侵攻」とは、あまり関係ないんだけど。
 ↓『田中宇の国際ニュース解説』ウクライナ戦争で最も悪いのは米英(2022年4月29日)
NATOの要員として2014年以降にウクライナ軍のテコ入れ策を担当していたスイス軍の元情報将校ジャック・ボーは、私が見るところ、今回のウクライナ戦争が起きた経緯について、最も詳しく語っている専門家だ。
(略)
ウクライナ周辺はもともと中世にユダヤ教を国教の一つにしたハザール王国があった関係で、ユダヤ教徒が多数いる。ハザールは、ユダヤ人の多数派である「アシュケナジ(ドイツ系)」の発祥の地になっている(しかし、すべてのユダヤ人はローマ時代にイスラエルに住んでいた人の子孫であるという建前を守るため、中東と全く無関係な東欧人がユダヤ人の多数派であることは言ってはいけないことになっている。これはボーでなく私の認識)。ウクライナには世界最大のユダヤ人コミュニティがあった(現状で5万-40万人と概算されている。ウィキペディアによると世界で12番目に大きなユダヤ人コミュニティ)。同時にウクライナは、強いユダヤ人敵視の流れもある。かつてロシア革命の立案者・参加者(共産党幹部、NKVD)の中にユダヤ人が多く、革命後のソ連共産党がウクライナ人を大量に餓死させるホロドモールを引き起こしたことから、共産党=ユダヤ人を憎む文化的素地があり、それがウクライナでの極右・ネオナチ運動の根幹にあるとボーは説明している。


 白人のユダヤ人のルーツは(イスラエルではなく)ハザール王国。
 ハザール王国は中央アジアにあった、
 というのは知っていたんだけど、具体的な場所は知らなくて。
 「へぇ、ウクライナにあったんだ」と。

 ↓『ウィキペディア』ハザール
ハザールは、7世紀から10世紀にかけてカスピ海の北からコーカサス、黒海沿いに栄えた遊牧民族およびその国家。支配者層はテュルク系民族と推測されており、支配者層が9世紀頃にユダヤ教に改宗したことは有名である。交易活動を通じて繁栄した。
(略)
ハザールはおそらく6世紀末にカスピ海沿岸およびカフカスからアゾフ海のステップに進出したが、その時期はまだ西突厥の勢力が強大で、その宗主権のもとに置かれていた。626年、東ローマ帝国のヘラクレイオス1世は帝国の北東国境を守るために「東のテュルク」と同盟を結んだ。この「東のテュルク」の主力をなしていたのがハザールであり、東ローマ帝国は彼らと共にペルシア(サーサーン朝)支配下にあったカフカスを攻め(ビザンチン・サーサーン戦争、第三次ペルソ・テュルク戦争)、大きな戦果をあげた。


 ↓黄色がハザール王国。赤がキエフルーシ(キエフ大公国)。
Khazar.jpg

 ↓『ウィキペディア』キエフ大公国
ルーシ最古の年代記である『ルーシ原初年代記』(『過ぎし年月の物語』)によれば、ノヴゴロド(ホルムガルド)に拠って最初のルーシの国家(ルーシ・カガン国)を建設したといわれるリューリクの子、イーゴリを擁した一族のオレグが882年頃、ドニエプル川流域のキエフを占領して国家を建てたのが始まりだとされている。なお、この国家を建設したと年代記が記している「海の向こうのヴァリャーグ」がノルマン人なのかそうでないのかには議論の余地があるが、ノルマン人が関与していたことはほぼ間違いないとされている(彼らの言語は古ノルド語であったが、次第に古東スラヴ語へと変遷して行ったと推定されている)。

 キエフルーシのほうが新しい国。
 (ノヴゴロド(ホルムガルド)は都市の名前)
 キエフルーシは、ウクライナの西側、ベラルーシ、ロシアの西側あたり。
 (プーチンが「ウクライナ、ベラルーシ、ロシアは同じ民族だ」と言っていたのはこのことだろう)
 (そうすると、ゼレンスキーのようなハザール人(ユダヤ人)は別の民族、となるだろう)
 (一般的には、ハザール人とは言わず、アシュケナジと言うらしい)        
 ウクライナのドニエプル川が境界で、西側がキエフルーシ。東側がハザール王国。

 ↓『ウィキペディア』ハザール
ハザールのユダヤ教受容は非常に有名であるが、改宗に関する史料は少なく、その時期と実態は謎に包まれており、さまざまな論争を呼んでいる。西欧ではアクイタニア(アキテーヌ)のドルトマルが864年に書いたマタイ伝の注釈の中で、ハザールの改宗にふれているので、864年以前であることは確実であろう。アラブのマスウーディーはハザールの王(ベク)がハールーン・アッ=ラシード(在位:786年 - 809年)の時代に、ユダヤ教を受け入れ、ビザンツ帝国やムスリム諸国から迫害を受けて逃れてきたユダヤ教徒がハザール国に集まったと記している。10世紀のコルドバのユダヤ人ハスダイ・イブン・シャプルトがハザールのヨシフ・カガンに宛てた手紙、いわゆる『ハザール書簡』において、「ブラン・カガンが夢の中で天使に会ってユダヤ教に改宗したが、民衆が新しい宗教を信じなかったので、ベクが尽力してユダヤ教の普及をはかった」という記述がある。ブラン・カガンの時代だとすると、730年 - 740年頃ということになる。以上のように、改宗の時期や理由は断定することはできないが、9世紀初頭と考えるのが妥当なところであろう。
735年にマルワーン率いるウマイヤ朝軍に敗れたハザールは一時的にイスラム教に改宗したものの、アッバース革命に前後するイスラーム帝国内部の混乱を機に、799年にオバデア・カガンは再びユダヤ教を公的に受容した。こうして9世紀までに、ハザールの支配者層はユダヤ教を受容したが、住民はイスラム教徒が多かったと考えられている。
(略)
ハザール・カガン国は10世紀になると衰退し始め、貢納国であったヴォルガ・ブルガールの離反や、キエフ・ルーシ(キエフ大公国),ペチェネグといった外敵の脅威にさらされていった。965年、キエフ・ルーシの大公スヴャトスラフ1世の遠征で、サルケルおよびイティルが攻略され、ハザール・カガン国は事実上崩壊した。


 中東のユダヤは、紀元66年、ローマ帝国に反乱を起こすが(ユダヤ戦争)敗れる。
 132年にも反乱を起こすが(バル・コクバの乱)、これにも敗れ、
 ローマ帝国は、
 「ユダヤの不安定要因はユダヤ教とその文化にあると考え、その根絶を図った」(『ウィキペディア』バル・コクバの乱)。
 このあたりから中東から離れるユダヤ人が多くなったのでは?(民族離散(ディアスポラ))
 で、おそらくハザール王国にもユダヤ人が移り住み、
 ハザール王国がユダヤ教を国教としたことで、白人のユダヤ教徒が誕生した。
 ↓『ウィキペディア』ハザール
アラブのマスウーディーはハザールの王(ベク)がハールーン・アッ=ラシード(在位:786年 - 809年)の時代に、ユダヤ教を受け入れ、ビザンツ帝国やムスリム諸国から迫害を受けて逃れてきたユダヤ教徒がハザール国に集まったと記している。

 で、965年、キエフルーシによってハザール王国の砦サルケルが陥落し、首都イティルまで攻め込まれ、ハザール王国は衰退する。
 そして13世紀のモンゴル帝国の侵攻によって、ハザール王国は消滅する。
 ハザール人(ユダヤ人)はヨーロッパに移り住んだのだろう。

 白人のユダヤ人にとって、中東のイスラエルよりも、ハザール王国のほうが直接のルーツ。
 このウクライナ戦争で、シオニストはハザール系を支援しているのでは?

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オーディン

 ↓『ウィキペディア』オーディン
odin.jpg
 北欧神話のオーディン。まさかの魔法キャラ。Nuker。

 柳田國男によれば、日本にも左目がない像があるらしい。

 3万年前の縄文人。
 北方と南方の民族が混ざって縄文人になったと思う。

 3万年前は氷河期で、
 北方はオホーツク海が凍っていて。
 南方は、氷河期で海水が少なくて海退期。
 簡単な船でも、台湾→沖縄→九州に渡ることができたはず。

 縄文人を形成した北方系が、北欧神話のオーディンとつながっているのではないかと思う。
 ただし。言語としては、北方系と南方系で混ざったから(そしておそらく南方系のほうが人数が多い)、
 日本語にインド・ヨーロッパ語族の痕跡はないが。

 でもインド・ヨーロッパ語族よりも古いインド・ヨーロッパ祖語に日本語を含める説もある。
 ↓『ウィキペディア』インド・ヨーロッパ祖語
さらに過去に遡って他の語族との関連を見出す説も存在する。
日本語、チュクチ・カムチャッカ語族、エスキモー・アレウト語族といったアジアの諸言語とともに、ウラル語族との関係を主張する説(ノストラティック大語族説、グリーンバーグのユーラシア大語族説が代表的)


 縄文人は歴史を書き残さなかった民族。
 (その後、中国の影響で歴史書を作るようになった)
 (ロシアは日本よりも古代史がない)
 これも、知恵を残すために、知識を残さなかったのでは?

 井沢元彦は(たしか『逆説の世界史1』だったと思うが)、
 技術の進歩で扱える情報が増えたから文明が進歩した、みたいなことを言っていたと思う。
 でも、情報が増えたことで混乱も大きくなったんじゃないの?

 で、インド・ヨーロッパ語族は、氷河期が終わった〈大洪水〉のとき(1万年前)、
 コーカサス山脈からインドとヨーロッパに分かれて民族移動したのではないかと思う。
 この民族が、ギリシャ神話のゼウスやインド神話のシヴァの元ネタ。
 または、そういう神話を持っていた民族。
 北欧神話のオーディンは、もっと古い氷河期の伝承。
 何の根拠もないけど。

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『麒麟がくる』

 NHKの『麒麟がくる』を見た。

 もちろん前作の『いだてん』は見ていない。
 その前の『西郷どん』も、第1話で子供時代をやっていたので見ていない。
 大河ドラマで子供時代って必要?
 西郷隆盛には興味あるが、子供時代をやられると見てられなくて、
 第1話を見ないでそのあとを見るのもアレなんで、『西郷どん』も見なかった。

 『麒麟がくる』は、いつものように「子供時代があるんじゃないか?」と不安だったが、それがなかったから、とりあえずは見れた。

 「麒麟」は、織田信長なのか、明智光秀なのか?
 光秀は信長を「麒麟」として崇拝するが、そうではないと思うようになり、
 信長に裏切られたと思った光秀が信長を裏切った、というストーリーなら及第点。
 信長からのプレッシャーで光秀が狂っていくというストーリーなら大好物。

 まぁ私は千利休黒幕・忍者説だが、それは無理だと分かっているので。
 結局、光秀の謀反は、光秀の心理的な問題だから、確証が出てくることはないと思う。

 徳川家康/豊臣秀吉・黒幕説はない。
 ただ、服部半蔵は信長が死ぬことは知っていたと思う。

 じゃあ、秀吉側の黒田官兵衛は?となると。
 利休と官兵衛はつながっていたんだっけ?
 そこらへんの知識がないのでなんとも。
 利休と官兵衛がつながっていたなら、秀吉の「中国大返し」も不思議ではない。

 将軍説と朝廷説。
 信長の家臣の光秀が足利義昭をありがたがるとは思えない。
 あるとすれば朝廷説だが、しかし信長と朝廷は良好な関係。
 だから朝廷説を採用するとすれば、狂っていた光秀が一方的に「朝廷のため」で動いた。

 明智光秀にしろ西郷隆盛にしろ、ただの愚か者で終わってほしい。
 「麒麟」殺しの愚か者なのに、それを称揚するドラマは見たくない。


 そういえば千利休はまだ大河ドラマになっていないはず。
 戦国時代の”フィクサー”として、千利休の大河ドラマは無理か?
 千利休が裏表のあるドロドロしたやつ。

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信長暗殺/千利休・忍者説

 戦国時代。茶器は恩賞として与えられた。
 土地は有限であるが、茶器は土をこねて焼くだけ。
 元手ゼロで「国一国の価値がある」とした詐欺行為。

 まぁ織田信長としては、家臣がみんな恩賞を欲しがるのに土地は有限だから、代わりに何か与えるものが必要で。
 戦国時代の茶道ブームは、恩賞を与えられないときのことを考えて作り出されたものだと思う。

 ↓『三重県伊賀市公式観光サイト 伊賀ぶらり旅』伊賀焼
伊賀焼は元々、約1200年前(天平年間729~749)に農民が農業用の種壷や生活雑器を焼いていた事が始まりとされ、奈良時代には伊勢の皇大神宮に献上した記録もあります。また、室町時代末期に活躍した太朗太夫・次郎太夫(戦国時代の陶工)が、享禄の頃(1528-1532)に丸柱で伊賀焼を再興したといわれ、「伊賀焼の創始者」とも云われています。
桃山時代に侘び茶が大成されると伊賀焼の持つ風情が千利休ら茶人に大変好まれ、大名間で献上品として利用されるほど珍重されていました。


 信長と利休と伊賀忍者は良好な関係だった。
 忍者が茶器を作って、利休が価値を吊り上げて、信長が家臣に与えてた。


 1569年。信長はルイス・フロイスと対面する。
 有限だと思っていた土地が、とてつもなく広いことを知った。

 たしか井沢元彦の『逆説の日本史』だったと思うが。
 豊臣秀吉が朝鮮出兵をする前に信長がそれを考えていて、秀吉のそれは引き継いだだけだ、と。

 中国大陸を平定するために、まずは日本を統一しなければならない。
 で、信長の次男・信雄は1579年。伊賀国を攻めるが敗退する(第一次天正伊賀の乱)。
 1581年。再び伊賀を攻め、今度は勝利する(第二次天正伊賀の乱)。
 この翌年、明智光秀の謀反が起きる。
 これは伊賀忍者の報復ではないのか?

 光秀と忍者がどう結びつくのか?
 信長は光秀を秀吉よりも信頼していた。
 その光秀を忍者が狂わせた。
 その忍者とは利休ではないのか?という推測。

 信長は中国大陸を平定して中国皇帝になるつもりで。
 だから信長は日本の統治には興味がなく、朝廷とは良好な関係だった。
 天皇はそのまま日本を治めればいい。

 しかし利休は、茶会などで一緒になる光秀にウソ情報を吹き込んだのではないか?
 信長は天皇を排除して日本の王になるつもりだ、と。
 それを信じた光秀は、逆賊の信長を討たねばならん、となった。
 (光秀にとって、恩義ある信長に対しての謀反は苦渋の選択だっただろう)
 信長はキリスト教を知ってから、それまで以上に変な感じになっていたし。
 (キリスト教を知ることで仏教の本来的な意味を知った)
 (一般的な仏教徒がやっていることはニセモノと信長は思ったが、他者から見ると信長だけがおかしくなった)
 (「千の風になって」の精神で、墓石を安土城の階段に使ったり、浅井長政の頭蓋骨で盃を作ったり)
 (信長は徹底した合理主義者だった)
 利休は「朝廷からも諸大名に宣旨が下る」とか、光秀にパーフェクトな計画を吹き込んだだろう。
 しかし、それはすべてウソで。


 ↓『ウィキペディア』伊賀越え
天正10年6月2日(1582年6月21日)、本能寺の変が発生した。徳川家康は本能寺の変の報に際して取り乱し、一度は、明智光秀の支配下にある京都に上り松平家にゆかりのある知恩院(浄土宗鎮西派総本山)に駆け込んで自刃すると主張した。しかし本多忠勝を始めとする家臣たちに説得されて帰国を決意し、伊賀国を経由して、三河国へ帰還した。
(中略)
御斎峠から天正伊賀の乱の地・伊賀国に入るが、伊賀の土豪は家康一行を守る姿勢だった。


 忍者は、本能寺で信長が死ぬことを知っていた。
 信長亡き後、次は誰に寄生するのか?
 そこで目をつけたのが家康だろう。
 家康は信長の舎弟で、信長が虐殺を行なった伊賀国を通り抜けることはできないと思われたが、伊賀忍者の服部半蔵が話をつけた。
 しかし、それも計画のうちで。
 影響力を持つために、家康の「命の恩人」になった。

 忍者は、家康の命の恩人で。
 利休は、秀吉のご意見番。
 これは忍者が始めから計画していたのではないのか?


 あと、気になるのは。
 なぜ利休は秀吉の朝鮮出兵に反対したのか?

 「韓国起源説」によれば、忍者も利休も朝鮮人。
 この説を採用すれば、忍者や利休は李氏朝鮮を守りたかった、となるだろう。

 ↓『ウィキペディア』高麗茶碗
1580年には千利休が珍品を求め、京都の瓦師・樂長次郎らにつくらせた「ハタ(縁の部分)ノ反リタル茶碗」「ゆがミ茶碗」を、1584年には「ひづミたるかうらい(高麗)」を茶会に用いた。このことから利休の高麗茶碗趣味はもとは樂焼趣味から生じたともいわれる。なお、この趣味はのちに瀬戸や志野、古唐津趣味へと継承されている。

 利休は「高麗茶碗趣味」だったらしい。
 利休や忍者が朝鮮人ではなくても、高麗茶碗の輸入を通じて李氏朝鮮とは良好な関係だったのかも。

 で、信長は利休との茶会でポロっと中国平定の計画を洩らしてしまって。
 通り道の朝鮮半島も信長に支配されることになる。
 利休を通じてそれを知った忍者が信長に反抗するようになったのかも。

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信長暗殺/キリスト教

 これも一度公開して、すぐに削除したヤツ。
 ヘタしたらキリスト教徒に怒られるかも、と思って。
 あと、これの続きを考えるのも面倒になって。
 でもまぁ、とりあえず公開してみる。


 6日のフジテレビ『新説!所JAPAN』で。
 明智光秀の謀反に忍者が関わっていたんじゃないか?という説。
 私もそれを考えていた、という後出し。

 いや、NHKの大河ドラマは明智光秀でしょ?
 それを知ったとき、そろそろその説をリリースしようとは思っていたのだが。
 文章にするのが面倒くさくて。

 歴史学者・磯田道史の考えは、
 「忍者の虐殺をやった翌年に信長の命運は尽きているので」
 「色んな情報を明智光秀に流されて、信長の生存が難しい状況が生まれたかもしれない」
 「忍者は明智光秀に信長の情報を流していた」
 みたいなものらしいが。
 やはり学者だと、史料を見つけてから新説の発表となるのだろう。
 素人の私にはそんなものは関係ない。


 まず織田信長が変わったのは、1569年にルイス・フロイスと会ったこと。
 信長は頭が良すぎてキリスト教の影響を受けた。

 一神教は理性を重視する。
 理性があるのが人間で、理性がないのが動物。
 人間も動物として生まれてくるが、モーセの十戒を守ることで理性が培われ、動物ではなく人間として生きることができる。
 (赤ちゃんに理性はないから、理性は後天的なものだと思う)
 ここまでは問題ないが。
 理性を重視する傾向から、女性や異教徒の理性は劣るとみなされ、権利が制限されたりする。
 「十戒を守らないと動物のまま」となると人権的に危険な感じになる。

 で、信長はキリスト教を知ってから、比叡山延暦寺の焼き討ちなどをやりだした。
 私腹を肥やす比叡山の坊主は人間ではなく動物である、と。

 もっともこのような考え方は仏教にもあって。
 六道。
 餓鬼界とか人間界とか天上界とか、6つの世界に分かれている。
 死んだ後、生きていたときの行いで、それらの世界に生まれ変わる。
 それは、私たちが同じ「世界」に生きているようで、しかし一人ひとりが持つ”世界”が違うということ。
 まぁ、自分自身は人間界に住んでいると考えるだろう。
 でも迷惑行為をする隣人は、修羅界だったり畜生界で生きている。
 (インド・ヒンドゥー教のカースト制度もこれに近いものだろう)

 信長は誰よりも宗教を理解していて、その宗教的正義で焼き討ちを行なった。
 キリスト教を知ることで仏教も比較検討できるようになったと思う。

 しかし信長の家臣は「キリスト教によって信長は狂ってしまった」と考えるだろう。
 信長の舎弟である徳川家康もキリスト教を「邪宗門」として危険視する。
 だから江戸幕府はキリスト教を弾圧した。

 そして江戸幕府5代将軍・徳川綱吉は「生類憐れみの令」を出す。
 信長がキリスト教を受容して、他人を動物扱いする風潮が広がった。
 そのキリスト教的なものを一掃するために綱吉は「人々が仁心を育むように」と儒教を用いたのだろう。
 (仏教ではなく儒教なのは、仏教には六道があるからだろう)
 (キリスト教・仏教を退けるために江戸幕府は儒教を採用したと思うが、この儒教も幕末になると厄介なことになる)
 (哲学としては、儒教はキリスト教や仏教に劣る、というのが私の印象。儒教は全く知らないけど)

 徳川家康や豊臣秀吉や明智光秀にとって英雄である織田信長が狂った。

 問題は。
 本当に、信長が狂ったのか?
 それとも、信長が狂ったと思った光秀が狂っていたのか?

 その光秀の狂気に忍者が関わってくる。
 光秀は忍者に「信長は狂った」と思わされた。
 光秀にとって謀反は正義だった。

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