『カント哲学の核心』御子柴善之(NHKBOOKS)を図書館から借りてきて読んでいるのだが。
2週間かかっても一冊読めなかった。
脳みそ、溶けてんのかな?
「カントは理性を推論能力と定義したのがすごい」と前に書いたが。
そういえば、「物自体」と言い出したのもカントだった。
人間は「物自体」を知ることはできず、人間が知覚した「現象」を理解するだけ。
やっぱりカントは読まなければダメだ、と思う。
↓『カント哲学の核心』P54
「金」という経験的概念を主語にもつ「金は黄色の金属である」という命題を例に挙げ、この判断が分析的判断であることを主張している。彼によれば、主語概念がア・ポステリオリに学ばれたものであっても、その判断が主語概念を分析するだけのものであれば、それはア・プリオリな判断なのである。「金」という概念で私たちは「黄色であること」や「金属であること」をすでに考えているのであり、「金は黄色の金属である」という判断を下す際に、このような「金」の概念の外に何も探す必要がない。矛盾律に従って、たんに「金」という概念を分析すればよいと説明している。
「彼によれば」とか、この本の著者である御子柴善之も、カントのこの説明は納得できないのだろう。
「金は黄色である」「金は金属である」と経験したからこそ、ア・ポステリオリ(経験的)に「金」という概念を得たのであって、ア・プリオリ(先験的)に「金」という概念を持っていたわけではない。
やはりカントの論拠は弱い。
読者は納得できていないのに、論を進めるから「カントは分からない」になってしまうのだと思う。
なぜカントはこんなガバガバな論理で満足したのだろう?と疑問だったのだが。
↓『カント哲学の核心』P42
なお、「序文」をこれまで検討してきた中で言及しなかった論点の一つを補足したい。それは、イギリスに見られた「常識」に訴える哲学の動向である。
なんか「常識学派」というものがあったらしい。
「金は黄色で金属である」のは「常識」。
「明白である」ことと「ア・プリオリ」がごっちゃになっている。
「常識学派」に対してはカントの説明でもいいんだろうけど。
カントが想定していた反論が「常識学派」みたいな程度が低いもので、一般的な反論に耐えられるものではない。
というのもカントが難解である一因になっていると思う。
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「カントは理性を推論能力と定義したのがすごい」と前に書いたが。
そういえば、「物自体」と言い出したのもカントだった。
人間は「物自体」を知ることはできず、人間が知覚した「現象」を理解するだけ。
やっぱりカントは読まなければダメだ、と思う。
↓『カント哲学の核心』P54
「金」という経験的概念を主語にもつ「金は黄色の金属である」という命題を例に挙げ、この判断が分析的判断であることを主張している。彼によれば、主語概念がア・ポステリオリに学ばれたものであっても、その判断が主語概念を分析するだけのものであれば、それはア・プリオリな判断なのである。「金」という概念で私たちは「黄色であること」や「金属であること」をすでに考えているのであり、「金は黄色の金属である」という判断を下す際に、このような「金」の概念の外に何も探す必要がない。矛盾律に従って、たんに「金」という概念を分析すればよいと説明している。
「彼によれば」とか、この本の著者である御子柴善之も、カントのこの説明は納得できないのだろう。
「金は黄色である」「金は金属である」と経験したからこそ、ア・ポステリオリ(経験的)に「金」という概念を得たのであって、ア・プリオリ(先験的)に「金」という概念を持っていたわけではない。
やはりカントの論拠は弱い。
読者は納得できていないのに、論を進めるから「カントは分からない」になってしまうのだと思う。
なぜカントはこんなガバガバな論理で満足したのだろう?と疑問だったのだが。
↓『カント哲学の核心』P42
なお、「序文」をこれまで検討してきた中で言及しなかった論点の一つを補足したい。それは、イギリスに見られた「常識」に訴える哲学の動向である。
なんか「常識学派」というものがあったらしい。
「金は黄色で金属である」のは「常識」。
「明白である」ことと「ア・プリオリ」がごっちゃになっている。
「常識学派」に対してはカントの説明でもいいんだろうけど。
カントが想定していた反論が「常識学派」みたいな程度が低いもので、一般的な反論に耐えられるものではない。
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