まとまっていないんだけど、頭の中のを吐き出しておかないと、頭から離れない。
哲学。
スピノザの『エチカ』での情念論(『エチカ』はそこしか覚えていない)。
欲望があって、自己が大きくなると「喜び」。小さくなると「悲しみ」。
そこから一歩進めて、ではなぜ欲望が生じるのか?
西田幾多郎の「絶対無」。人間の根源は絶対的な無だから。
根源が絶対的な無だからこそ「存在」を求める。人は認められたい。
(「承認欲求」があるのは、人の根源が無だから。依拠する「存在」がないから)
得られた「存在」は「自己」になる。「自己存在」。
この「自己存在」が大きくなったり、小さくなったりする。感情の発生源。
何か失敗したときの「凹む」というのは悲しみだが、凹んでいるのが「自己存在」。
「絶対無」は、ロックの「タブラ・ラサ(白紙)」なのか?
「タブラ・ラサ」は物心がついてからのこと。
「タブラ・ラサ」の前にソクラテスの「イデア」がある。
赤ちゃんに大人の「概念」は(赤ちゃんに「経験」がないから=「概念」がないから)伝わらないが、伝わるものもある。それが「イデア」。
知覚した(経験した)エイドス(形相)と、それ以前に持っていた「イデア」が合致したら、「概念」になる。
何かを美しいと思う、その判断の前に、美のイデアが与えられている。
「絶対無」から始まって「イデア界」→「タブラ・ラサ」→経験、概念、認識。
物心がつく前のイデア界は記憶がない。
「アプリオリ」と言われるのはこのイデア界で獲得している。
経験論は「タブラ・ラサ」から始まるが、それ以前の状態がある。
だから「合理論」のほうが正しい。
『葉隠』の山本常朝。
何度か記事にしようとしているが挫折している。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」が、肉体の死ではなく、「我」の死を言っているのなら正しいのだが。
主君を第一とすることは自分の「我」を打ち捨てることになる。
「主君」を「神」とすれば、信仰者にも分かるのでは?
主君や神を「存在」とする。主君や神への「愛」。
山本常朝は主君が亡くなったとき、後を追って腹を切ろうとしたが許可されなくて、まだ若かったのに隠居した。
その追い腹が、「自分のほうが立派な家臣だ」と周りに誇示する我欲に思えて。
そのことの反省ができていなくて、いびつな死生観を感じる。
でも、長い隠居生活で悟ったこともあるのだろう。
主君のために自分の「我」を殺せ、とか、自分の「我」を通してつまらない死に方をするな、とか。
でも、思想としてはアンバランスさが気になる。
山本常朝は赤穂浪士を批判していたが。
仇を討ち取ったら、さっさと腹を切れ、と。
すぐに腹を切らなかったのだから、その討ち入りは亡くなった主君のためではない。
赤穂藩が取り潰しになって職を失ったのが赤穂浪士。
赤穂浪士は、手柄を立てて他の藩に再就職しようとしていた。
自分の欲のためなのに「主君のため」と偽っていた赤穂浪士を、山本常朝は嫌っていたのだろう。
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スピノザの『エチカ』での情念論(『エチカ』はそこしか覚えていない)。
欲望があって、自己が大きくなると「喜び」。小さくなると「悲しみ」。
そこから一歩進めて、ではなぜ欲望が生じるのか?
西田幾多郎の「絶対無」。人間の根源は絶対的な無だから。
根源が絶対的な無だからこそ「存在」を求める。人は認められたい。
(「承認欲求」があるのは、人の根源が無だから。依拠する「存在」がないから)
得られた「存在」は「自己」になる。「自己存在」。
この「自己存在」が大きくなったり、小さくなったりする。感情の発生源。
何か失敗したときの「凹む」というのは悲しみだが、凹んでいるのが「自己存在」。
「絶対無」は、ロックの「タブラ・ラサ(白紙)」なのか?
「タブラ・ラサ」は物心がついてからのこと。
「タブラ・ラサ」の前にソクラテスの「イデア」がある。
赤ちゃんに大人の「概念」は(赤ちゃんに「経験」がないから=「概念」がないから)伝わらないが、伝わるものもある。それが「イデア」。
知覚した(経験した)エイドス(形相)と、それ以前に持っていた「イデア」が合致したら、「概念」になる。
何かを美しいと思う、その判断の前に、美のイデアが与えられている。
「絶対無」から始まって「イデア界」→「タブラ・ラサ」→経験、概念、認識。
物心がつく前のイデア界は記憶がない。
「アプリオリ」と言われるのはこのイデア界で獲得している。
経験論は「タブラ・ラサ」から始まるが、それ以前の状態がある。
だから「合理論」のほうが正しい。
『葉隠』の山本常朝。
何度か記事にしようとしているが挫折している。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」が、肉体の死ではなく、「我」の死を言っているのなら正しいのだが。
主君を第一とすることは自分の「我」を打ち捨てることになる。
「主君」を「神」とすれば、信仰者にも分かるのでは?
主君や神を「存在」とする。主君や神への「愛」。
山本常朝は主君が亡くなったとき、後を追って腹を切ろうとしたが許可されなくて、まだ若かったのに隠居した。
その追い腹が、「自分のほうが立派な家臣だ」と周りに誇示する我欲に思えて。
そのことの反省ができていなくて、いびつな死生観を感じる。
でも、長い隠居生活で悟ったこともあるのだろう。
主君のために自分の「我」を殺せ、とか、自分の「我」を通してつまらない死に方をするな、とか。
でも、思想としてはアンバランスさが気になる。
山本常朝は赤穂浪士を批判していたが。
仇を討ち取ったら、さっさと腹を切れ、と。
すぐに腹を切らなかったのだから、その討ち入りは亡くなった主君のためではない。
赤穂藩が取り潰しになって職を失ったのが赤穂浪士。
赤穂浪士は、手柄を立てて他の藩に再就職しようとしていた。
自分の欲のためなのに「主君のため」と偽っていた赤穂浪士を、山本常朝は嫌っていたのだろう。
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