個人サイト『ニーチェクラブ』がちょっと面白いことになっていた。
引用について。
もっと前に、「pipit」が「悪魔ちゃん」の引用の仕方にダメ出ししたら、
管理者の「パニチェ」が悪魔ちゃんの引用の仕方でOKってことにしたが。
パニチェや悪魔ちゃんの引用はアウトで、pipitの引用が正しい、はず。知らんけど。
あと、引用は、
肯定にしろ批判にしろ、引用元の文章に対して自分の意見を述べるために行う。
自分の考えが「主」で、引用は「従」でなければならない、はず。
その主従を裁判所がどう判定するのか知らないが、まぁ文字数なんじゃないの?
(『ウィキペディア』など、著作権フリーのものもある)
↓『ニーチェクラブ』内掲示板「哲学のドアをノックする 4」たーぼー
引用先を示さなかったのは悪いですが、無断引用といっても誰に許可を求めればいいんですか? 引用のルールに則っていれば、無断で使えるのが引用。
法律があって紹介したくても出来ないですよ。
この掲示板に書かないで、URL だけの紹介ならオーケーなのかな?
転載するにはダメみたいです 他人の文章を、
「良いこと言っている」と、「もう何も付け加えることがないから」と、
そのまま転載するのはダメ。
その文章に対する自分の考えを述べることで引用になる。
何も言うことはないけど紹介したい、というときは、URLを書いてそのサイトに誘導するとか。
↓『ニーチェクラブ』内掲示板「哲学全般、科学(科学哲学)、仏教etc 4」たーぼー
西田幾多郎は自分の生涯をふりかえって、こう言った。「私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した。その後半は黒板を後にして立った。黒板に向かって一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである」。 この西田幾多郎の文章について、
「西田は怪物になってしまったから、人生の後半は黒板を背にして立ったのだと思います。」
とか、
「あれが阿弥陀の本願なんですよ。西田は自分の人生の全半生で黒板と向かい合ってきたから、後半生は黒板を背に立つことが出来たんです。」
とか言っているが。
西田幾多郎は単に、前半は学生として黒板を前にしていて、後半は教師として黒板を背にしていた、と言っているだけで。
阿弥陀がどうとか意味不明。
↓『ニーチェクラブ』内掲示板「田秋総合研究所 7」田秋
自分の経験からいうと勉強すればするほどゴールが遠くなることはよくあることです。今まで見えてなかった諸問題が見えてくるからです。問題が見えてくること自体進歩の証なのですが、以前よりゴールは遠くにあることに気づいたということは最初勉強を始めた時の謙虚さよりもさらに謙虚にならざるをえません。
何故謙虚であることがいいのかというと、周りからの情報をシャットアウトしないからです。一旦受け入れ吟味してから取捨選択をしても遅くありません。他人の意見は有難いものです。自分の背中は直接みることはできませんが、人は容易に私の背中を見ることができます。この比喩は色んな示唆を含んでいます。
指摘を吟味し正しければ相手に感謝し自分を改めます。先ほど取捨選択と書きましたが、私は捨てずに頭の倉庫にしまっておきます。後になって指摘の真意が理解できることもあるからです。 分かればわかるほど(認識力が増せば)、自分は何も知らない、ということが分かってくる。
分かっていない人ほど、自分は分かっているつもりになっている。
ソクラテスが言う「無知の知」とは、そういうことだと思う。
また、ソクラテスは、
「自分の目を自分で見るのは目がひっくり返るようなもので、それは難しいのではないか。でも相手の目に映った自分の目を見ることはできる」
とか言っていたはず。
自己認識は、自我というバイアスがかかるから、たいてい間違っている。
他人からの評価のほうが、他人は自分に何の思い入れもないから、より正確に判断できる。
↓『ニーチェクラブ』内掲示板「哲学全般、科学(科学哲学)、仏教etc 4」たーぼー
パニチェさんにとってはニーチェは神様なんですね。 この評価は正しいのか?
(この評価が正しいとして)たーぼーが言っていることは正しいと受け入れることは、パニチェにとって悲しみだろう。
ニーチェを自己の存在としているだろうから。
でもそれが「我をなくす」ということで。
「知を愛する」ことで、それを受け入れることができる。
ぜんぜん知らないが「大死一番絶後再蘇」も同じだろう。
これまで私は「我をなくせ」とか、簡単に書いてきたが。
実際のそれは、かなりシンドイ。
哲学とか仏教は、そういうものだと思う。
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