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引用について

 おそらく、もうニーチェ自身の著作権はなくなっているはず。
 だから原文(ドイツ語だっけ?)は、著作権フリー。
 その原文をパニチェが日本語に訳して公開したら、その権利者はパニチェ。

 翻訳者に権利が発生する。
 (出版社にも著作隣接権があるはず)
 パニチェの引用の仕方は、本のタイトルしか書いていないから、権利を侵害していると思う。
 (パニチェが自分で翻訳しているのなら、それでいいが)

 タイトル、著作者、翻訳者、出版社、ページ数
 を明記するのが一般的だと思うのだが。

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『ニーチェクラブ』

 個人サイト『ニーチェクラブ』がちょっと面白いことになっていた。

 引用について。
 もっと前に、「pipit」が「悪魔ちゃん」の引用の仕方にダメ出ししたら、
 管理者の「パニチェ」が悪魔ちゃんの引用の仕方でOKってことにしたが。
 パニチェや悪魔ちゃんの引用はアウトで、pipitの引用が正しい、はず。知らんけど。

 あと、引用は、
 肯定にしろ批判にしろ、引用元の文章に対して自分の意見を述べるために行う。
 自分の考えが「主」で、引用は「従」でなければならない、はず。
 その主従を裁判所がどう判定するのか知らないが、まぁ文字数なんじゃないの?
 (『ウィキペディア』など、著作権フリーのものもある)

 ↓『ニーチェクラブ』内掲示板「哲学のドアをノックする 4」たーぼー
引用先を示さなかったのは悪いですが、無断引用といっても誰に許可を求めればいいんですか?

 引用のルールに則っていれば、無断で使えるのが引用。

法律があって紹介したくても出来ないですよ。
この掲示板に書かないで、URL だけの紹介ならオーケーなのかな?
転載するにはダメみたいです


 他人の文章を、
 「良いこと言っている」と、「もう何も付け加えることがないから」と、
 そのまま転載するのはダメ。
 その文章に対する自分の考えを述べることで引用になる。
 何も言うことはないけど紹介したい、というときは、URLを書いてそのサイトに誘導するとか。


 ↓『ニーチェクラブ』内掲示板「哲学全般、科学(科学哲学)、仏教etc 4」たーぼー
西田幾多郎は自分の生涯をふりかえって、こう言った。「私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した。その後半は黒板を後にして立った。黒板に向かって一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである」。

 この西田幾多郎の文章について、
 「西田は怪物になってしまったから、人生の後半は黒板を背にして立ったのだと思います。」
 とか、
 「あれが阿弥陀の本願なんですよ。西田は自分の人生の全半生で黒板と向かい合ってきたから、後半生は黒板を背に立つことが出来たんです。」
 とか言っているが。

 西田幾多郎は単に、前半は学生として黒板を前にしていて、後半は教師として黒板を背にしていた、と言っているだけで。
 阿弥陀がどうとか意味不明。


 ↓『ニーチェクラブ』内掲示板「田秋総合研究所 7」田秋
自分の経験からいうと勉強すればするほどゴールが遠くなることはよくあることです。今まで見えてなかった諸問題が見えてくるからです。問題が見えてくること自体進歩の証なのですが、以前よりゴールは遠くにあることに気づいたということは最初勉強を始めた時の謙虚さよりもさらに謙虚にならざるをえません。

何故謙虚であることがいいのかというと、周りからの情報をシャットアウトしないからです。一旦受け入れ吟味してから取捨選択をしても遅くありません。他人の意見は有難いものです。自分の背中は直接みることはできませんが、人は容易に私の背中を見ることができます。この比喩は色んな示唆を含んでいます。

指摘を吟味し正しければ相手に感謝し自分を改めます。先ほど取捨選択と書きましたが、私は捨てずに頭の倉庫にしまっておきます。後になって指摘の真意が理解できることもあるからです。


 分かればわかるほど(認識力が増せば)、自分は何も知らない、ということが分かってくる。
 分かっていない人ほど、自分は分かっているつもりになっている。
 ソクラテスが言う「無知の知」とは、そういうことだと思う。

 また、ソクラテスは、
 「自分の目を自分で見るのは目がひっくり返るようなもので、それは難しいのではないか。でも相手の目に映った自分の目を見ることはできる」
 とか言っていたはず。
 自己認識は、自我というバイアスがかかるから、たいてい間違っている。
 他人からの評価のほうが、他人は自分に何の思い入れもないから、より正確に判断できる。


 ↓『ニーチェクラブ』内掲示板「哲学全般、科学(科学哲学)、仏教etc 4」たーぼー
パニチェさんにとってはニーチェは神様なんですね。

 この評価は正しいのか?
 (この評価が正しいとして)たーぼーが言っていることは正しいと受け入れることは、パニチェにとって悲しみだろう。
 ニーチェを自己の存在としているだろうから。
 でもそれが「我をなくす」ということで。
 「知を愛する」ことで、それを受け入れることができる。
 ぜんぜん知らないが「大死一番絶後再蘇」も同じだろう。

 これまで私は「我をなくせ」とか、簡単に書いてきたが。
 実際のそれは、かなりシンドイ。
 哲学とか仏教は、そういうものだと思う。

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第一者は神か?

 どうも私は「第一者」を「神」とすることに抵抗があって。
 (いや、「第一者」とか、他人には分からない単語だが)

 (おそらく動物は、時間や空間みたいな認識はしていない)
 (精神(自我)がある人間だけが、そのような認識形式を持っている)
 (それは親や他者から分有され、自分もそのような認識形式を得る、と今のところ考えている)
 (じゃあ、その親は?となると、そのまた親から)
 (と考えていくと、始めに、そのような、動物とは違った認識形式を得た「第一者」が想定される)

 (私たちは物自体の世界で生きているのではなく、現象の世界で生きている)
 (その現象を生み出しているのは、自分の精神(自我))
 (とすると(現象の)世界を創造したのは「第一者」となる)
 (ちなみにスピノザは、「第一者」を想定しなくても精神は発生するという立場らしい)

 第一者は神か?
 なんか第一者という考え方が近代的な感じがして。
 「物自体」「現象」という前提があって、第一者という考え方が出てくる。
 モーセが「神」と言うとき、モーセは「物自体」とか「現象」とか考えていたのか?
 「物自体」「現象」という考え方が近代のものであれば、モーセは第一者的なことは考えていなかったはず。
 聖書の天地創造を「第一者」を用いて解釈するのも面白いとは思うが、
 モーセがそのようなことを考えていなかったのであれば、その解釈は間違い。

 しかし。
 「現象」という言葉は、古代ギリシアで使われていた。
 その「現象」という言葉を最初に作った人は、「世界」を「物自体」と「現象」に分けるために、その言葉を作ったのかもしれない。
 でも、ソクラテスの時代には、もうそのような思想・世界観は失われていて。
 でも「現象」という言葉だけは残っていて。
 で、近代になって「現象」という語の本来的な意味を取り戻した。
 と考えれば、太古から「第一者」みたいな思想があった、と考えることもできる。

 という二つの考えがあって、どっちが正しいのか判断できない。
 モーセはどのような意味で「神」という語を使っていたのか?

 モーセは、釈迦やソクラテスよりも昔の人。
 (釈迦とソクラテスが同年代)
 (モーセは、釈迦やソクラテスの1000年前)
 (イエスは、釈迦やソクラテスの400年後)
 そのモーセの神概念や、どういう意味で「天地創造」と言ったのか?なんて、
 それを探る取っ掛かりさえ分からない。

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日記

 図書館から借りてきていたロックの解説本『ジョン・ロック』(岩波新書)。
 (貸出延長で)4週間かけても200ページの本を読み終えられなかった。
 「難しい」とかじゃなくて、単純に読んでいない。
 早めに眠くなって、いつの間にか寝ていて。
 すぐに目が覚めるが「もう朝まで寝てしまえ」と。

 こんな毎日なんで、本格的な哲学書は読めるはずがなく。
 また解説本を借りてきた。
 『ロック入門講義』冨田恭彦(ちくま学芸文庫)と『デカルト、ホッブズ、スピノザ』上野修(講談社学術文庫)。

 『ロック入門講義』は300ページ。
 まぁ読めるはずがない。

 上野修の『スピノザの世界』(講談社)は持っていて。
 けっこう良い本だと思う。
 で、上野修が考えるスピノザの神とドゥルーズが考えるスピノザの神は異なっていて。
 どちらが正しいのか、スピノザの『エチカ』を読んで確かめよう、と思っていて。

 でもその前に、ひと通り17世紀の哲学者は把握しておこう、と。
 今はロックで。
 このあとはパスカルとホッブズ。
 で、また。「やっぱりアリストテレスとトマス・アクィナスもちゃんと読んでおくか」とか思っていたり。
 ぜんぜん前に進まない。

 『デカルト、ホッブズ、スピノザ』の冒頭しか読んでいないが。
 デカルトは、動物は自動機械みたいなものだと考えていて。
 (食べ物を食べたら、勝手に胃酸が出るように)
 (そこに人間の意志は働いていない。自動機械)
 人間も動物で、同じように自動機械ではあるが。
 でも、人間は動物とは違って「精神」がある。心身二元論。
 その精神の起源を考えると、神を想定するしかない。
 (私は「神」ではなく「第一者」と呼ぶが)
 (「神」という語は多義的で)
 (モーセが「第一者」的なことを「神」と呼んでいたのか確信がない)
 それに対してスピノザは、神(精神の始まり)を想定しなくても精神は発生する、と。
 もちろんそれは輪廻説ではなく。

 デカルトぐらいなら、まだ普通の考えだが。
 スピノザになると、なんかもう超越している。人知を超えている。
 問題は、その理屈。
 そしてそれが正しいのか?だが。

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アメリカ大統領選

 ↓『NHK』アメリカ大統領選挙 期日前投票が異例のペースで増加(2020年10月18日)
アメリカ大統領選挙は、およそ2週間後の投票日を前に、期日前投票をした人が少なくとも2200万人と、前回2016年の大統領選挙の期日前投票全体の4割近くに上り、異例のペースで増えています。
(略)
また来月3日の投票日以降の開票に関しても混乱が予想されています。
各種調査によりますと、全米の少なくとも20以上の州が投票日やその前日の消印を有効として投票日以降の到着を受け付けるとしていて、中には20日後まで受けつける州もあります。
さらに、郵便投票の集配を担う郵政公社の態勢の問題点も指摘されています。
郵政公社では経営改革のもと経費を削減するとして、郵便物を仕分ける機械の削減などが進められていました。
この影響で大量の郵便投票の到着が期日に間に合わず、無効になるおそれも指摘されています。
トランプ大統領は繰り返し、郵便投票が不正につながると主張していて、選挙結果をめぐる法廷闘争が起きれば、長期にわたって結果が確定しない可能性もあります。


 私はトランプの再選と予想している。
 バイデンの得票は、前回のヒラリーを下回るんじゃないのか?

 で、期日前投票によって、選挙結果の判明が遅くなる、と。
 そうすると、バイデンは敗北宣言をなかなか出さないだろう、と思う。
 (それはトランプでも同じだと思うが)
 (どっちにしろゴタゴタするのでは?)

 まぁトランプが再選でも、日米関係は難しくなると思うが。

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