おそらくデカルトは真理に達している。
(と、デカルト自身は思っている)
でも、デカルトの著作を読んでも「真理とは何か」なんてことは書かれていない。
「真理とは何か」と教えても、それを聞く/読む者に十分な理性がないと、その意味を理解できない。
十分な理性がない者は、その真理を自分の意味で解釈する。
それでは何も教えていないのと同じ。
また、十分な理性に達した者は、誰かに教えてもらわなくても、自分で真理に辿りつく。
ゆえに真理を教える必要性は何もない。
必要なのは、正しく理性を導く方法。
で、デカルト自身が言っているが。
自分は「それ」をダイヤモンドだと思っているが、でも本当はただのガラスかもしれない、と。
『方法序説』におけるデカルトの文章的には、「それ」は「方法」であるが。
デカルトは「真理に達した」とは言ってないんだけど、ダイヤモンドと言っているのは真理だと思う。
独自の方法によって、真理に達した。
その方法を紹介する、と。
私は、そのデカルトが隠している真理が何かを知りたい。
(ガラスかもしれないけど)
その真理はデカルトの著作には書かれていない。
でも、書かれていないのを知るのは理性(推論能力)。
だから自分の理性の程度をジャッジすることにもなる。
で、私の(正しく理性を導く)「方法」は、「我をなくせ」。
(スピノザ的に言えば「感情の奴隷になるな」)
それは普段の生活の中で培われる。
「我」が小さくなるほど、理性は大きくなる。
(真理に達した)哲学者の本を読んでも何も分からなければ、それは自分の生活/行動が自分の益にはなっていないということ。
(この「我をなくせ」という言葉も、理性が十分でない者は曲解するだろうけど)
(これはもう、どうにもなんない)
私は「方法」についてはその程度で。
デカルトのように啓蒙活動にはそんなに興味はない。
私が他者に対してできるのは、
一度くらいは読んでおいた方がいい哲学者を選別するぐらい。
↓クリックお願いします。


(と、デカルト自身は思っている)
でも、デカルトの著作を読んでも「真理とは何か」なんてことは書かれていない。
「真理とは何か」と教えても、それを聞く/読む者に十分な理性がないと、その意味を理解できない。
十分な理性がない者は、その真理を自分の意味で解釈する。
それでは何も教えていないのと同じ。
また、十分な理性に達した者は、誰かに教えてもらわなくても、自分で真理に辿りつく。
ゆえに真理を教える必要性は何もない。
必要なのは、正しく理性を導く方法。
で、デカルト自身が言っているが。
自分は「それ」をダイヤモンドだと思っているが、でも本当はただのガラスかもしれない、と。
『方法序説』におけるデカルトの文章的には、「それ」は「方法」であるが。
デカルトは「真理に達した」とは言ってないんだけど、ダイヤモンドと言っているのは真理だと思う。
独自の方法によって、真理に達した。
その方法を紹介する、と。
私は、そのデカルトが隠している真理が何かを知りたい。
(ガラスかもしれないけど)
その真理はデカルトの著作には書かれていない。
でも、書かれていないのを知るのは理性(推論能力)。
だから自分の理性の程度をジャッジすることにもなる。
で、私の(正しく理性を導く)「方法」は、「我をなくせ」。
(スピノザ的に言えば「感情の奴隷になるな」)
それは普段の生活の中で培われる。
「我」が小さくなるほど、理性は大きくなる。
(真理に達した)哲学者の本を読んでも何も分からなければ、それは自分の生活/行動が自分の益にはなっていないということ。
(この「我をなくせ」という言葉も、理性が十分でない者は曲解するだろうけど)
(これはもう、どうにもなんない)
私は「方法」についてはその程度で。
デカルトのように啓蒙活動にはそんなに興味はない。
私が他者に対してできるのは、
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