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トリチェリの真空実験2

 というか訂正。
1)で、12分あたりから、注射器を使った実験をしているが。
2)これは注射器の中のわずかな空気を膨張させているだけ。
3)膨張しているのだから、空気で満たされている。
4)で、空気を膨張させると圧力は弱くなり、注射器の外側の空気圧で、注射器はつぶれる。
5)この、膨張して圧力が小さくなった空気を、お前らは「真空」と呼んでいる。

 ↑これの4行目が間違い。
 5行目は正しいが、5行目に繋げるための4行目でミスった。

 注射器を力いっぱい引っ張ると、注射器が壊れる。
 これはなぜか?という問題。

 空気は膨張する。
 ピストンを引っ張ると、注射器の中のわずかな空気が膨張する。
 この、空気の膨張する性質が緩衝材になっている。
 しかし、空気の膨張は、次第に膨張しづらくなる。
 (または、空気の膨張には限界がある)
 空気が膨張しづらくなってきたら、空気は緩衝材にはならず、
 ピストンを引っ張る力は、注射器に直接かかるようになる。
 それで注射器が壊れる。
 (ピストンを引くと空気が膨張する)
 (空気が膨張しなければピストンは動かない)
 (空気がそれ以上膨張しづらくなったのに、さらにピストンを引っ張ると)
 (その力は、注射器に直接かかる)

 つまり、
 注射器を壊しているのは、ピストンを引っ張る力
 というのが正解。
 空気が膨張して圧力が弱くなっても、注射器の中と外の気圧差で注射器が壊れるのではない。

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スピノザ/精神には、自分の精神を知る機能はない

 ↓『ニーチェクラブ』内掲示板「What do you Want to do? 6」悪魔ちゃん -(2021/11/17(Wed) 18:14:57)
(略)
5・633世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか。
君は、これは眼と視野の関係と同じ事情だと言う。だが、君は現実に眼を見ることはない。そして、視野におけるいかなるものからも、それが眼によって見られていることは推論されえない。
(略)


 ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の一節らしい。

 『論考』は、昔、図書館から借りて、パラパラ見たことはあるんだけど。
 まぁ、いつものことだけど、何も覚えていない。

 で、上記の引用。

 アポロン神殿には「汝自身を知れ」という看板が掲げられていたらしい。
 それに対してソクラテスは「そんなことは可能なのか?」と疑問を呈する。
 それは「眼が、自分の眼を見る」ように不可能なことではないのか?
 しかし、相手の瞳に映った自分の眼を見ることはできる。
 そう言って、自分を知るために、他者と対話することを勧める。
 というのを思い出した。
 (私は、すっかりミソロゴス(言論嫌い)になったが)

 精神には、精神を知る機能はない。
 とは、スピノザらしい。
 上野修の『デカルト、ホッブズ、スピノザ――哲学する十七世紀』に書いてあったような。
 (私は上野修を評価している)
 (私が読み取れなかったところを読んでいる)
 (上野修の本は全部読みたいと思っているが、時間がない)

 「精神には、精神を知る機能はない」と言っても、
 悲しいとか怒っているとか、自分で分かるじゃん?
 という反論があるかもしれない。
 でも、悲しいとか、そういう感情は、肉体に属するもので。
 変なところにチョロ毛がある、と肉体のことを知るように、感情も知ることはできる。
 スピノザが「精神」と言っているのは、感情を含まないのだろう。
 「精神には、精神を知る機能はない」は、心身二元論を前提にしていると思う。

 たとえば、岡村さんが「頭、パッカーン」になったとき、
 本人はそれに気づいていなかっただろう。
 もしそうだとすれば、
 「精神には、精神を知る機能はない」は、正しいと思う。

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カント/現象・仮象

 ↓『ニーチェクラブ』掲示板「純粋理性批判を読んでみる。29」 pipit -(2021/11/14(Sun) 18:31:19)
(略)
(カント文章&御子柴善之先生の解説文)
『仮象は感官の責任ではなく悟性の責任である。現象に基づいて客観的な判断を下すのは、ひとり悟性である。(Ak291、中公65、岩波85)
↑カント先生
↓御子柴善之先生
先の「全感性界がまったくの仮象と化してしまう」という反論は、感性のことがらに真偽を持ち込んでいる点で的外れであることがこの引用文から明らかだろう。
感性界はたしかに現象の世界である。
しかし、それは仮象の世界ではない。
現象は仮象ではないのである。』
『カント哲学の核心』p105.106より引用
(略)


 この御子柴善之は、現象・仮象が分かっているのだろうか?

 まず、感性の世界とは、ゲシュタルト崩壊したときに見えるアレ。
 無意味の世界。赤ちゃんや動物が見ている世界。

 その感性の世界を、脳が空間・時間的に構成して見える、この世界が現象。

 普通に見えている世界が現象で、感性の世界(生(なま)の世界)は特殊な条件でなければ見えない。
 私たちは自然をそのまま見ているのではなく、現象を見ている。
 現象は、脳によって構成された意味の世界。

 昔、アウグスティヌスの『告白』を読んだとき、
 「事物が声をあげている」みたいなことを読んだ記憶がある。
 (記憶違いじゃないか、調べてから書けばいいんだけど)
 「キリスト教徒なのに汎神論的だな」と思って。
 現象は意味の世界だから、事物に意味がある。
 スピノザの汎神論もそういうことなのかも?と思うが、調べる時間がない。
 (ただし、こういう考え方は統合失調症で)
 (キリスト教が「汎神論は禁止」としたのも分からなくはない)

 普通、私たちは目に映るものが、ありのままのものだと思っているが、
 それは脳によって構成された意味の世界。現象。

 たとえば、新型コロナウイルス。
 これを「怖い、怖い」と言う人もいれば、「ただの風邪」と言う人もいる。
 どちらかが間違っているだろうけど、その間違っている人が見ている世界が仮象。
 その間違いは、悟性(知性)によって。
 仮象(間違った意味の世界)は、悟性によって見えている。

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カント/重力は存在しない説

 前回の「トリチェリの真空実験」。
 それを考えたのは1年前だが、文章にするのが面倒で、先延ばしにしていた。
 で、なんか肩の荷が下りた感じ。
 まぁ「ネタのストックがなくなった」とも言うが。
 さて、何をやろうか?

 個人サイト『ニーチェクラブ』の掲示板で気になっていたところ。
 ↓「純粋理性批判を読んでみる。24」うましか -(2021/07/22(Thu) 20:58:09)
§分析的〔analyticher〕判断と綜合的〔synthetischer〕判断の区別について

◇すべての判断〔allen Urteilen〕においては、主語〔Subjekts〕と述語〔Praedikat〕との関係がそのうちで思考されている。この関係は二種類の様式で可能である。

(私は肯定判断〔die bejahende〕だけを考察する。否定判断〔die verneinende〕への適用は容易だからである。)

◇述語Bは、主語Aのうちに(隠れて)含まれている或るものとして、この概念Aに属しているか、あるいはBは、たとえ概念Aと結びついているにせよ、この概念のまったく外にあるかのいずれかである。

◇前者の場合、その判断を私は分析的と名づけ、後者の場合には、綜合的と名づける。
(略)


 ライプニッツの「AはBである」と同じ話だと思う。
 BはAに内包している要素の一つ。
 「吾輩は猫である」と言うとき、猫(B)は我輩(A)の要素の一つ。
 それをカントは分析的判断と言っている、と。

 ↓「純粋理性批判を読んでみる。24」うましか -(2021/07/22(Thu) 21:56:52)
(略)
冨田恭彦『カント入門講義』のp.124~によれば、カントの分析判断と綜合判断の区別はロックによるものとのこと(p.129~参照)。カントもこれについて『プロレゴーメナ』で言及しています。


 「AはBである」と言うとき、
 Aに内包していない要素Bを述語するときがある。
 それをライプニッツは普通に誤謬としたが、ロックはそれを総合判断とした、ということか。
 まぁ、誤謬であっても判断には変わらない。

 ↓「純粋理性批判を読んでみる。24」うましか -(2021/08/01(Sun) 14:06:59)
(略)
◇それゆえ経験が、概念Aの外にあるあのXに他ならないのであって、このXに重さという述語Bと概念Aとの綜合〔Synthesis〕の可能性がもとづいているのである。
(略)


 物体に重さという要素は内包されていない。
 しかし、私たちが普通に「物体には重さがある」と判断するのは経験によって。
 物体には重さという要素が内包されていないのに、
 「物体には重さがある」と判断するのは総合判断。
 内包されていない要素をちょい足ししてしまうのは経験によって。
 (ライプニッツの場合は、「物体には重さがある」というのは、ただの誤謬)
 (その誤謬は、経験にもとづいている)

 ↓「純粋理性批判を読んでみる。24」うましか -(2021/08/01(Sun) 14:06:59)
(略)
◇なぜなら、たとえ私が物体一般の概念のうちに重さ〔Schwere〕という述語を全然含ませていないにせよ、物体一般の概念は経験の一部分をつうじてその完璧な経験を表示しており、それゆえ私は経験のこの一部分に、まさに同一の経験のなお他の諸部分をも、その完璧な経験に属するものとして付加することができるからである。
(略)


 問題は。
 お前らは「物体には重さが内包されてる(ヒッグス粒子みたいな)。だから分析判断じゃん?」と考えてしまうところだろう。
 カントは物体の重さを総合判断としているが、お前らは分析判断だと考えてしまう。
 ここでカントの言っていることが分からなくなってしまう。

 「たとえ私が物体一般の概念のうちに重さ〔Schwere〕という述語を全然含ませていないにせよ」
 「私が」と言うカントは、「お前らと違って」と言っているように思える。
 カントは、しれっと、珍説を主張していないか?
 私と同様に「重力は存在しない説」。

 地球が自転していることで、重さが生じているし、物体は落下する。
 もし地球が自転していなければ、物体に重さはない。落下もしない。
 重さは、地球が自転していることで生じている働き。
 物体に重さは内包していない。
 ゆえに「物体には重さがある」と思うのは、分析判断ではなく総合判断。
 地球はずっと自転し続けているから、私たちは物体の重さを経験し続けている。
 地球の自転がなくなった状況を経験したことがない。
 物体に重さがあるのが当たり前だと思っている。
 経験によってそう思っている。
 それは総合判断。

 「重力は存在しない説」を採用すれば、カントの主張はスジが通っていることが分かるだろう。
 重さは、地球の自転によって生じている働き。
 物体自体に重さは内包されていない。

 カントはどうやって「重力は存在しない説」を思いついたのだろう?
 私の場合は、ガリレオの『天文対話』を読んでいて。
 カントも同じなんじゃないのか?
 そうすると、「重力は存在しない説」を思いついたのはガリレオなんじゃないのか?
 もちろん『天文対話』には「重力は存在しない説」なんて書かれていない。
 でも、火あぶりにされるかもしれないから書かなかっただけで、考えてはいた。
 それを私やカントは読み取った(超越論的な認識)。

 まぁそれはともかく。
 「重力は存在しない説」を採用しないと、カントの言っていることは理解できないだろう。

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トリチェリの真空実験

 ↓『パスカル』小松攝郎(清水書院)P41
 ところで、一七世紀における物理学の主要な問題の一つに真空の問題があり、しかもそれは最もあいまいな問題の一つでもあった。当時の哲学者は、まだ真空と無とを区別していず、また学者によってはアリストテレスの自然学の考えに従って、自然は真空を嫌悪し、絶対にこれを許さないと信じ、真空を得ることはできないと考えていた。デカルトでさえも真空は実現できないものであり、また想像もおよばないものと言明していた。ただ原子論者だけが真空は存在するといっているだけであった。しかし、かれらでさえも実際に人間にそれとわかるように真空の実験をすることができるとは考えていなかったのである。
 ところが、一六四四年、トリチェリーが突然驚くべき実験を行なった。これは「トリチェリーの実験」と今日呼ばれているものであるが、この実験が物理学を一変させようとしていたのである。その当時、メルセンヌはイタリアを旅行していてそれを知り、フランスにその年のうちに紹介している。しかし、メルセンヌをはじめとするだれもがその実験を追実験することはできなかった。メルセンヌは、そこで再びイタリアに行き、トリチェリーに会ってみずからの眼でその実験の成功をみたのである。しかし、メルセンヌは、またもそれをみずからの手で成功させることができなかった。この実験のむずかしさの一つは、かなり頑丈でしかも均整のとれたガラス管が必要であり、それがなかなか手に入れることができないというところにあった。
 一六四六年10月、デカルト派に属している、すぐれた実験家のプティが旅行でルアンを通りがかり、エティエンヌ=パスカルを訪問した。そして、この二人は真空をつくる実験を協力して試みたのである。当時、ルアンには有名なガラス工場があった。二人はここで四ピエほどの長さのガラスの吹管を準備した。それから四〇ないし五〇ポンドの水銀も準備した。こうして実験が行なわれた。水銀を一ぱいつめたガラス管を逆さにして、水銀と水とを半々に入れた水槽の中にたてるとその上部に隙間が生じた。これがトリチェリーの実験の再現であったが、エティエンヌ=パスカルはその隙間をみて「真空だ」と叫んだのであった。しかし、息子のパスカルは「それは空気の充満している隙間であるともいえる」といって反対したのである。その時、プティはガラス管を序々に上げていった。しかし、ガラス管の中の水銀はそれといっしょには上がらないで、管の上部の隙間は序々に増大していった。そして、ついに管の下端が水槽の水の部分に達すると水がガラス管の上部の隙間をめがけて侵入して行った。このことから、この隙間には空気が充満していないことが証明された。しかし、それに微量の空気、もしくは水銀から出たなんらかの精気が含まれていないということをこの実験はなにも証明していなかった。また、なぜ隙間ができるのかもわからなかった。したがって、それを説明する必要もあった。これはパスカルの仕事であった。


 パスカルはフランス人。
 エティエンヌ=パスカルは父親。
 メルセンヌはパリの学僧で、民間のサロンを開いていて、それは「メルセンヌアカデミー」と呼ばれていた。
 パスカル親子はメルセンヌアカデミーの常連。
 (このアカデミーは、後に政府によって設けられた王立科学アカデミーの母体になった)
 (この頃の大学はスコラ哲学が支配していて、研究機関としては劣っていた)
 エヴァンジェリスタ・トリチェリはイタリア人。ガリレオの弟子。
 「私たちは「大気の海」の底で生活している」みたいなことを言った人。
 トリチェリの、この考え方は大好き。

 で、前に書いたが、私は「真空は存在しない」と思っている。
 と言うと、お前らは、
 「真空ポンプで真空を作れるじゃん?」って反論するんでしょ?
 でも、その真空ポンプでも「完全な真空は作れない」って言うじゃん?
 空気分子がいくらかは残っている。

 で、空気分子は、膨張・収縮しやすい。
 袋に入ったお菓子を高い山にもっていくと、お菓子の袋は膨らむ。
 (高地に比べて)地上は高気圧で、袋の中の空気圧と袋の外の空気圧は均衡しているが(空気分子の大きさが同じ)、
 高地は低気圧で、袋の外の空気圧が低いから、袋の中の空気が膨張して、お菓子の袋は膨らむ。

 で、真空ポンプで作り出した「真空」にも、空気分子はいくらか残っている。
 その空気分子は、最大限に膨張している。
 最大限に膨張しているから、圧力は非常に弱くなっている。
 この圧力が非常に弱い状態を、お前らは「真空」と呼んでいる。
 しかし、空気分子は膨張しつつ、空間を隙間なく埋めている。
 空間は常に空気分子で埋められているのだから「真空」ではない。
 空気分子の膨張にも限界があるから、真空ポンプで完全な「真空」は作れない。
 (もしかしたら人間が作る真空ポンプが弱いだけで、空気分子はまだまだ膨張するのかもしれないが)
 空気分子に膨張する性質がある以上、真空は存在しない。
 「真空は存在する」と思っている人は、「空気は膨張する」を否定しなければならない。

 そういうことで、
 真空は存在しない以上、トリチェリの真空実験も否定しなければならない。
 まぁ、パスカルが言うとおり「空気の充満している隙間」なんだけど。
 (パスカルは、なんでここから「真空だ」と考えを変えたんだろう?)

 当たり前だけど、水には空気が含まれている。
 同じように、液体である水銀にも空気が含まれているのだろう。

 ガラス管に水銀を注いでいるとき、
 下部の水銀には、水銀自体の重さによる圧力が大きくかかる。
 この圧力によって、(水銀を注いでいるときに)下部の水銀に含まれている空気が押し出されている。
 (はず。見えないけど)
 だから、ガラス管に詰められた水銀には、ちょうどいいバランスの空気が含まれている。
 だから、ガラス管をひっくり返しても、そのことでは「真空(隙間)」は生じない。
 (おそらく、空気を多く含んだ水銀が上部に入れ替わるだけ。それも見えないが)

 で、問題は、水銀が入った水槽に、このガラス管を立てたときに、なぜ隙間が生じるのか?
 水槽の水銀は、重さによる圧力が少ないから、より多くの空気が含まれている。
 この水槽の水銀に、ガラス管の水銀の重さによる圧力がかかったとき、
 水槽の水銀から空気が押し出される。
 その押し出された空気がガラス管の上部の隙間になる。と思う。
 (この仮説は、水槽の水銀に含まれる空気が(ガラス管を立てたときに)減るかどうかで検証できると思う)

 水銀で温度計が作られるのだから、水銀も膨張・収縮しやすいのだろう。
 重さによる圧力で水銀が収縮したとき、水銀に含まれている空気がはじき出される、
 みたいなことだと思う。
 (深海では水中の空気が少ない)

 ↓で、トリチェリの真空実験(米村でんじろう)


 パスカルは、水銀ではなく水でも試したみたいだが。
 それは上記動画の5分あたりから。
 水は水銀よりも軽いから、ガラス管も長くなければならない。
 そんな長いガラス管は無理だから、米村でんじろうはホースを使って、上部だけ、見えるようにガラス管をくっつけている。
 で、水が詰まったホースをビルの屋上に引き上げるのだが、
 6分あたりで、米村でんじろうは「出た、出た」と、真空が生じたように言っているが。
 私には、気泡に見える。空気じゃん!
 でも、これを見て「真空」と思ってしまうのが科学者。
 (「真空」と思って見ると真空に見えてしまうのだろう)
 6分45秒あたりで、大量の気泡が生じているが。
 これを見て、お前らはどう思う?

 米村でんじろうも、水に含まれている空気がいくらか出たことは認めているが。
 じゃあ、どの気泡が真空で、どの気泡が空気なのか?
 それを示して欲しい。
 「この気泡は真空」「この気泡は空気」と。
 私としては「すべての気泡が空気」という主張。
 ゆえに真空は生じていない。

 で、12分あたりから、注射器を使った実験をしているが。
 これは注射器の中のわずかな空気を膨張させているだけ。
 膨張しているのだから、空気で満たされている。
 で、空気を膨張させると圧力は弱くなり、注射器の外側の空気圧で、注射器はつぶれる。
 この、膨張して圧力が小さくなった空気を、お前らは「真空」と呼んでいる。

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