『コペルニクス』高橋憲一(ちくまプリマー新書)を読み終えた。
↓『コペルニクス』高橋憲一(ちくまプリマー新書)P13
コペルニクスの生業は、カトリック教会の小さな司教管区の聖堂参事会に勤務することであり、今日で言えば、行政職の役人といったところだった。天文学の研究は彼にとってあくまでも余技に過ぎなかった。しかしそれはただの暇つぶしではなかった。彼の生涯を捧げるほどの余技だった。 ニコラウス・コペルニクスはドイツ系ポーランド人。
(ウィキペディアによると、ポーランド人かドイツ人かで論争があったらしい)
1473年生まれ。
この年代に分かりやすい有名人がいなくて。
時代的な雰囲気をつかみにくい。
10年後の1483年にマルティン・ルターが生まれる。
ガリレオは91年後の1564年生まれ。
↓『ウィキペディア』ニコラウス・コペルニクス
10歳の時、銅を商う裕福な商売人だった父親が亡くなり、母親のバルバラは既に亡くなっていた。そのため、母方の叔父であるルーカス・ヴァッツェンローデが父の死後、コペルニクスと兄弟を育てた。ルーカスは当時教会の律修司祭(カノン)であり、後に王領プロイセンのヴァルミア司教となった。 ただし、高橋憲一の『コペルニクス』では、母親のバルバラは、父親のミコワイよりもあとに亡くなった、としている。
大学入学のときには叔父が後見役になっているから、母親もコペルニクスが十代のときに亡くなっているのだろう。
大学で医学(と法学)を学んでいて、当時の医学は占星術と関係していたから、天文学もその関係で学んだらしい。
で、叔父の縁故で聖堂参事会に就職?する。
コペルニクスの主著は『天球回転論』。1543年出版。
1543年はコペルニクスが70歳で亡くなった年。
コペルニクス自身は『天球回転論』を出版するつもりはなかったが、
コペルニクスの噂を聞いた数学教授ゲオルク・ヨアヒム・レティクスがコペルニクスを訪ね、出版を勧めた。1539年。
このときレティクスは25歳。コペルニクスの41歳年下。
この『天球回転論』より前にコペルニクスが書いていたのが「コメンタリオルス(短い解説)」。1510年頃。
12ページくらいのもので、
↓『ウィキペディア』ニコラウス・コペルニクス
コペルニクスは同人誌として「コメンタリオルス」(Comentariolus)を出版し、太陽中心説(地動説)をはじめて公にした。ただしこれは友人の数学者たち数人に送られたものに過ぎず、一般にはほとんど知られていなかった。 ウィキペディアでは「同人誌として出版した」とあるが。
まぁ文章の問題だと思うが、
手書きのものを数人の友人に送り、その友人が写し取って知り合いに送る、という感じだったらしい。
で、「「コメンタリオルス」のコピーが私的に広まって」(『コペルニクス』高橋憲一(ちくまプリマー新書)P132)天文学者として知られるようになった。
↓『コペルニクス』高橋憲一(ちくまプリマー新書)P66
コペルニクスを研究する科学史家を悩ませる問題は、何の前触れもなく、「コメンタリオルス」でいきなり太陽中心説という斬新で革命的な天文理論の出現に出くわしてしまうことである。伝統的な地球中心説に満足せず、どこに不満を抱き、新理論へと駆り立てた動機は何だったのだろうか? このことについてのコペルニクスの言及は僅かしかなく、その片言隻句を活用しながら推測する以外にない。 ↓『コペルニクス』高橋憲一(ちくまプリマー新書)P92
プトレマイオスの月理論への不満とか惑星運動の第二変則性への新たな対応とかといった諸問題は、広い意味で、伝統的な天文学に対する批判である。しかし月理論への不満は、伝統的天文学が観測データを説明できないとか、その予測精度が不十分であることへの不満に尽きるのではない。コペルニクスの不満はもっと根本的なものだった。序文を見る限り、コペルニクスの理論的革新の動機は、彼自身が明言している天文学的伝統の不一致・不確実さしか残されていないように思われる。私は彼がここでは素直に語っていると解釈する。というのも、序文の言い回しは、「コメンタリオルス」の冒頭部分の言い換えと見なすことができるからである。「コメンタリオルス」から関連部分を引用しておこう。
カリポスとエウドクソス(アリストテレスの同心天球説の実質的創始者)は、同心的諸円を手段としてこのことを引き出そうと試みたが、それらの手段によって彼らは、星の運動におけるあらゆる事柄――星々の回転について見受けられる事柄のみならず、星々があるときは高い方へ登っていったり、あるときはわれわれの方へ下って来るように見えるということについても(つまり、惑星の距離変化のこと)――の説明を与えることができなかった。そういうわけで、そのことは離心円と周転円を手段としてなされるのがいっそう良い見解だと見なされるようになってしまい、ついにはその見解に知者の大部分が賛同しているのである。
しかしながら、プトレマイオスや他の多くの人々によって、それらについて至るところで提出されてきた事柄(=伝統的な周転円説)は、たとえ数値的には(見かけの運動と)対応しているとしても、小さからぬ疑問点をまたもつと見なされてきた。なぜならそれらの理論は、さらにいくつかのエカント円を想定するのでなければ、不十分だったからであり、またこうした円のゆえに、星はその導円上を、またその固有の中心においても常に一様な速さで動くわけでもないことが明白だったからである。このゆえに、こうした思弁は十分に完全であるとも、また理性と十分に一致しているとも思われなかった。それゆえ、私は以上のことに気づいたときに、完全運動の原理が要求するように、諸円すべてが自らにおいて一様に動かされると、あらゆる見かけの変則性が依存するようになるような諸円のもっと合理的な組み合わせ方法がおそらく発見されうるのかどうか、そのことに私はしばしば思案をめぐらしてきた。 コペルニクスは大学で天文学を学んだときに、違和感を感じたのではないのか?
違和感は、自分の中に「ある種の秩序」があり、それに外部の情報が調和しないから発生する、と思う。
(ソクラテス対話篇のどこかで「調和(ハルモニア)」という単語が出てきたな、と)
(どういう文脈だったかは覚えていないけど)
(「自分の中の秩序」というのはスピノザの「どんな珍説であっても、その人の中ではスジが通っている(秩序がある)」から)
だから、自分の秩序に調和する「もっと合理的な組み合わせ方法がおそらく発見されうるのかどうか、そのことに私はしばしば思案をめぐらし」た。
この「自分の秩序」が、コペルニクスと大部分の知者では異なっていたのだろう。
大部分の知者は思弁的だが、その思弁的なことが「自分の秩序」に調和している。
だから疑問も違和感も感じない。
(新型コロナウイルスについても、私とお前らでは見解が異なると思うが)
(両者とも、自分の秩序に調和するものを正しいと思っている)
(『コペルニクス』で高橋憲一は、ニュートンを完全に正しいと思っているようだが)
(ニュートンの学説も現象を思弁的に解釈したものでしかない)
(これに違和感を感じるかどうか)
(教科書を読んでいるだけでは、違和感を感じることはない)
(天動説と同様に、思弁的に整合性は取れているから)
(学ばなければ発見はないが、学んでいるだけでも発見はない)
まぁ、これは私が、
ヒッグス粒子のノーベル賞受賞のニュースを見て、
「そんなわけないじゃん?」と思ったことが、「重力は存在しない説」を考えることのきっかけだったからだけど。
「重力は存在しない説」が当たっているかはともかく、コペルニクスもそんな感じじゃないの?と。
もしそうだとすると、「自分の中の秩序」って何なん?って問題になる。
それは経験的に獲得するものなのか、
始めからあるが、経験によって、見えなくなっているのか。
(以上は、判断とは何か?に対する私の仮説)
(判断の基準が「自分の秩序」だから、「自分の秩序」が歪んでいると、人は仮象を見る)
『コペルニクス』では、コペルニクスのあとのケプラーやガリレオについても少し書かれている。
↓『コペルニクス』高橋憲一(ちくまプリマー新書)P224
(ガリレオの『天文対話』は、対話を行なっているような形式になっているが)
第四日目は潮汐現象を論じている。ガリレオがいかにこれを重視していたかは、本来、書名として『潮汐についての対話』を予定していたことからも明らかである。
(略)(ガリレオは潮汐現象を公転と自転によるものとするが)
この説明は全く誤っていた。潮汐現象の事実と矛盾している――ガリレオの理論では、一二時間毎に干満が生じてしまうが、実際は六時間ごと――のみならず、観測者が地球と共有する運動は知覚されないはずであるから、ガリレオ自身の発見した相対性原理とも矛盾した立論だったのである。 そうそうそう。
『天文対話』に、それが書かれていたことを思い出した。
「重力は存在しない説」が弱いと私も認めるのは、潮汐現象についてまったく説明できないから。
「なにか思いつかないかな?」と思って、8年が過ぎた。
ソクラテスの「1+1=2」と潮汐現象を、さしあたり考えることにする。
と言っても、私の「考える」は、なにか思いつくまでダラダラすることになるんだけど。
で、思いついたときに、それが妥当かどうか、否定するのが私の「考える」。
その否定に耐えたら、確度が高くなる。
だから、思いつかないことには考えようがない。
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