fc2ブログ

日記

 今、ベーコンの『ノヴム・オルガヌム』を読んでいるが。

 なんだろね?
 企画(発想)は良かったけど、ベーコンの能力不足で実現しなかった、
 みたいな感じ。
 延々と前口上が続いて、本文がない。

 でも企画は良いのだから、「じゃあ、私が考えてやろう」となって。
 なんか悶々としている。

↓クリックお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ

八十八ヶ所巡礼

 前に「八十八ヶ所巡礼」の『幻魔大祭』を買って。
 MVになっていない「慧光」と「神@熱」が良かった。

 じゃあ、ということで、
 『幻魔大祭』の前に出ていた『凍狂』も買ってみた。
 「金土日」と「紫光」はMVになっていて、良曲。
 でも、MVになっていない「永・凹・阿阿瑠」が良すぎ。
 「AOR」と読むらしい。

↓クリックお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ

エピックファンタジー

 スマホゲームの『エピックファンタジー』は続けています。
 新キャラ「ベローネ」が追加されて、140連ガチャをやって、
 ベローネはレベル460になるだけ重ねられたが。
 でも、レベル460では、今やっているステージでは、まだまだ足りない。

 で、140連ガチャで、メインで使っているキャラも出て、
 それで先に進められるんじゃないかと期待していたが、ダメでした。

 もう、「SR保有英雄選択券」を使って、レベルを上げるしかない。
 で、問題になるのは「どのキャラを育てるべきか?」。
 攻略サイトがないんで、どのキャラが有能なのか、分からない。
 なので、上位50位までの人が、どのキャラを使っているか、集計してみた。
 (誰かツールを作って、自動で集計してくれない?)

96:SR /エルフ守護者     /サポーター /地
90:SR /サスカッチ精霊使い  /サポーター /火
88:SSR/ティンダレオス    /サポーター /地
88:SR /バルタ        /タンカー  /火
86:SR /ガラード       /サポーター /光
84:SR /ドリトン       /タンカー  /地
80:SSR/オカシオ       /サポーター /火
78:SR /海賊看守長      /タンカー  /火
76:SR /海賊看守長      /デバッファー/水
64:SSR/リーブラ       /デバッファー/光
62:SR /ウラジミール     /デバッファー/火
58:SSR/キルケー       /デバッファー/闇
58:SSR/グレース       /タンカー  /火
54:SR /アディン       /デバッファー/光
50:SSR/ミカエル       /タンカー  /水
48:SR /カルドン突撃兵    /ディーラー /地
48:SSR/ヘラ         /ディーラー /闇
42:SR /チャチャ       /ディーラー /光
30:SR /カルドン竜騎兵    /タンカー  /闇
24:R /カルドン弓兵     /ディーラー /闇
22:SR /サスカッチ狂戦士   /タンカー  /水
22:SR /ランスロット     /タンカー  /闇
20:SSR/グウェン       /ディーラー /光
18:R /エルフ剣士      /デバッファー/光
14:R /スケルトンウィザード /サポーター /闇
12:SSR/カルマン       /デバッファー/地
8:SSR/カト         /ディーラー /火
8:SSR/グランド       /サポーター /光
8:SR /狼男の略奪者     /ディーラー /火
6:SSR/エリザベス      /デバッファー/水
6:SR /カルドン突撃兵    /ディーラー /闇
4:R /オークの戦士     /タンカー  /火
4:SR /サスカッチ精霊使い  /サポーター /水
4:SSR/ベローネ       /タンカー  /光
4:R /ミールミドン擲弾兵  /デバッファー/水
4:R /リーベル騎士     /タンカー  /地
4:R /海賊小銃手      /ディーラー /光
2:SR /アルエン       /サポーター /光
2:R /エルフ弓兵      /ディーラー /光
2:SR /エルフ精霊使い    /サポーター /闇
2:SR /エルフ精霊使い    /サポーター /光
2:SR /カルドンウィザード  /デバッファー/地
2:SSR/カルマ        /サポーター /水
2:SSR/クリスタル      /ディーラー /水
2:SR /サスカッチ弓兵    /ディーラー /水
2:SR /サスカッチ狂戦士   /タンカー  /地
2:R /スケルトンウィザード /サポーター /水
2:R /ミールミドンウィザード/デバッファー/火
2:SR /リリア        /デバッファー/闇
2:R /リーベル石弓兵    /ディーラー /闇
2:SR /狼男の略奪者     /ディーラー /闇

 先頭の数字は使用率。
 「エルフ守護者」の使用率は96%だから、50人中48人が使っているということ。
 使用率40%以上なら、育てても間違いないんじゃない?
 (ベローネの使用率が低いのは、追加された直後だから)

 レアリティRでも、「カルドン弓兵」「エルフ剣士」「スケルトンウィザード」を使っている人が多い。
 まぁRキャラだから、それなりにレベルを高くしないとダメなんだろうけど。
 まぁRキャラだから、余るぐらい持っているけど。
 むしろ成長させるのに必要な「魂」が足りなくなる。

↓クリックお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ

コペルニクス

 『コペルニクス』高橋憲一(ちくまプリマー新書)を読み終えた。

 ↓『コペルニクス』高橋憲一(ちくまプリマー新書)P13
 コペルニクスの生業は、カトリック教会の小さな司教管区の聖堂参事会に勤務することであり、今日で言えば、行政職の役人といったところだった。天文学の研究は彼にとってあくまでも余技に過ぎなかった。しかしそれはただの暇つぶしではなかった。彼の生涯を捧げるほどの余技だった。

 ニコラウス・コペルニクスはドイツ系ポーランド人。
 (ウィキペディアによると、ポーランド人かドイツ人かで論争があったらしい)
 1473年生まれ。
 この年代に分かりやすい有名人がいなくて。
 時代的な雰囲気をつかみにくい。
 10年後の1483年にマルティン・ルターが生まれる。
 ガリレオは91年後の1564年生まれ。

 ↓『ウィキペディア』ニコラウス・コペルニクス
10歳の時、銅を商う裕福な商売人だった父親が亡くなり、母親のバルバラは既に亡くなっていた。そのため、母方の叔父であるルーカス・ヴァッツェンローデが父の死後、コペルニクスと兄弟を育てた。ルーカスは当時教会の律修司祭(カノン)であり、後に王領プロイセンのヴァルミア司教となった。

 ただし、高橋憲一の『コペルニクス』では、母親のバルバラは、父親のミコワイよりもあとに亡くなった、としている。
 大学入学のときには叔父が後見役になっているから、母親もコペルニクスが十代のときに亡くなっているのだろう。
 大学で医学(と法学)を学んでいて、当時の医学は占星術と関係していたから、天文学もその関係で学んだらしい。
 で、叔父の縁故で聖堂参事会に就職?する。

 コペルニクスの主著は『天球回転論』。1543年出版。
 1543年はコペルニクスが70歳で亡くなった年。
 コペルニクス自身は『天球回転論』を出版するつもりはなかったが、
 コペルニクスの噂を聞いた数学教授ゲオルク・ヨアヒム・レティクスがコペルニクスを訪ね、出版を勧めた。1539年。
 このときレティクスは25歳。コペルニクスの41歳年下。

 この『天球回転論』より前にコペルニクスが書いていたのが「コメンタリオルス(短い解説)」。1510年頃。
 12ページくらいのもので、
 ↓『ウィキペディア』ニコラウス・コペルニクス
コペルニクスは同人誌として「コメンタリオルス」(Comentariolus)を出版し、太陽中心説(地動説)をはじめて公にした。ただしこれは友人の数学者たち数人に送られたものに過ぎず、一般にはほとんど知られていなかった。

 ウィキペディアでは「同人誌として出版した」とあるが。
 まぁ文章の問題だと思うが、
 手書きのものを数人の友人に送り、その友人が写し取って知り合いに送る、という感じだったらしい。
 で、「「コメンタリオルス」のコピーが私的に広まって」(『コペルニクス』高橋憲一(ちくまプリマー新書)P132)天文学者として知られるようになった。

 ↓『コペルニクス』高橋憲一(ちくまプリマー新書)P66
 コペルニクスを研究する科学史家を悩ませる問題は、何の前触れもなく、「コメンタリオルス」でいきなり太陽中心説という斬新で革命的な天文理論の出現に出くわしてしまうことである。伝統的な地球中心説に満足せず、どこに不満を抱き、新理論へと駆り立てた動機は何だったのだろうか? このことについてのコペルニクスの言及は僅かしかなく、その片言隻句を活用しながら推測する以外にない。

 ↓『コペルニクス』高橋憲一(ちくまプリマー新書)P92
 プトレマイオスの月理論への不満とか惑星運動の第二変則性への新たな対応とかといった諸問題は、広い意味で、伝統的な天文学に対する批判である。しかし月理論への不満は、伝統的天文学が観測データを説明できないとか、その予測精度が不十分であることへの不満に尽きるのではない。コペルニクスの不満はもっと根本的なものだった。序文を見る限り、コペルニクスの理論的革新の動機は、彼自身が明言している天文学的伝統の不一致・不確実さしか残されていないように思われる。私は彼がここでは素直に語っていると解釈する。というのも、序文の言い回しは、「コメンタリオルス」の冒頭部分の言い換えと見なすことができるからである。「コメンタリオルス」から関連部分を引用しておこう。

 カリポスとエウドクソス(アリストテレスの同心天球説の実質的創始者)は、同心的諸円を手段としてこのことを引き出そうと試みたが、それらの手段によって彼らは、星の運動におけるあらゆる事柄――星々の回転について見受けられる事柄のみならず、星々があるときは高い方へ登っていったり、あるときはわれわれの方へ下って来るように見えるということについても(つまり、惑星の距離変化のこと)――の説明を与えることができなかった。そういうわけで、そのことは離心円と周転円を手段としてなされるのがいっそう良い見解だと見なされるようになってしまい、ついにはその見解に知者の大部分が賛同しているのである。
 しかしながら、プトレマイオスや他の多くの人々によって、それらについて至るところで提出されてきた事柄(=伝統的な周転円説)は、たとえ数値的には(見かけの運動と)対応しているとしても、小さからぬ疑問点をまたもつと見なされてきた。なぜならそれらの理論は、さらにいくつかのエカント円を想定するのでなければ、不十分だったからであり、またこうした円のゆえに、星はその導円上を、またその固有の中心においても常に一様な速さで動くわけでもないことが明白だったからである。このゆえに、こうした思弁は十分に完全であるとも、また理性と十分に一致しているとも思われなかった。それゆえ、私は以上のことに気づいたときに、完全運動の原理が要求するように、諸円すべてが自らにおいて一様に動かされると、あらゆる見かけの変則性が依存するようになるような諸円のもっと合理的な組み合わせ方法がおそらく発見されうるのかどうか、そのことに私はしばしば思案をめぐらしてきた。


 コペルニクスは大学で天文学を学んだときに、違和感を感じたのではないのか?
 違和感は、自分の中に「ある種の秩序」があり、それに外部の情報が調和しないから発生する、と思う。
 (ソクラテス対話篇のどこかで「調和(ハルモニア)」という単語が出てきたな、と)
 (どういう文脈だったかは覚えていないけど)
 (「自分の中の秩序」というのはスピノザの「どんな珍説であっても、その人の中ではスジが通っている(秩序がある)」から)
 だから、自分の秩序に調和する「もっと合理的な組み合わせ方法がおそらく発見されうるのかどうか、そのことに私はしばしば思案をめぐらし」た。
 この「自分の秩序」が、コペルニクスと大部分の知者では異なっていたのだろう。
 大部分の知者は思弁的だが、その思弁的なことが「自分の秩序」に調和している。
 だから疑問も違和感も感じない。
 (新型コロナウイルスについても、私とお前らでは見解が異なると思うが)
 (両者とも、自分の秩序に調和するものを正しいと思っている)
 (『コペルニクス』で高橋憲一は、ニュートンを完全に正しいと思っているようだが)
 (ニュートンの学説も現象を思弁的に解釈したものでしかない)
 (これに違和感を感じるかどうか)
 (教科書を読んでいるだけでは、違和感を感じることはない)
 (天動説と同様に、思弁的に整合性は取れているから)
 (学ばなければ発見はないが、学んでいるだけでも発見はない)

 まぁ、これは私が、
 ヒッグス粒子のノーベル賞受賞のニュースを見て、
 「そんなわけないじゃん?」と思ったことが、「重力は存在しない説」を考えることのきっかけだったからだけど。
 「重力は存在しない説」が当たっているかはともかく、コペルニクスもそんな感じじゃないの?と。
 もしそうだとすると、「自分の中の秩序」って何なん?って問題になる。
 それは経験的に獲得するものなのか、
 始めからあるが、経験によって、見えなくなっているのか。
 (以上は、判断とは何か?に対する私の仮説)
 (判断の基準が「自分の秩序」だから、「自分の秩序」が歪んでいると、人は仮象を見る)

 『コペルニクス』では、コペルニクスのあとのケプラーやガリレオについても少し書かれている。
 ↓『コペルニクス』高橋憲一(ちくまプリマー新書)P224
 (ガリレオの『天文対話』は、対話を行なっているような形式になっているが)第四日目は潮汐現象を論じている。ガリレオがいかにこれを重視していたかは、本来、書名として『潮汐についての対話』を予定していたことからも明らかである。
(略)

(ガリレオは潮汐現象を公転と自転によるものとするが)この説明は全く誤っていた。潮汐現象の事実と矛盾している――ガリレオの理論では、一二時間毎に干満が生じてしまうが、実際は六時間ごと――のみならず、観測者が地球と共有する運動は知覚されないはずであるから、ガリレオ自身の発見した相対性原理とも矛盾した立論だったのである。

 そうそうそう。
 『天文対話』に、それが書かれていたことを思い出した。
 「重力は存在しない説」が弱いと私も認めるのは、潮汐現象についてまったく説明できないから。
 「なにか思いつかないかな?」と思って、8年が過ぎた。
 ソクラテスの「1+1=2」と潮汐現象を、さしあたり考えることにする。

 と言っても、私の「考える」は、なにか思いつくまでダラダラすることになるんだけど。
 で、思いついたときに、それが妥当かどうか、否定するのが私の「考える」。
 その否定に耐えたら、確度が高くなる。
 だから、思いつかないことには考えようがない。

↓クリックお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ

カント/7+5=12

 『ニーチェクラブ』の掲示板で気になっていた話題。
 ↓『純粋理性批判1』カント/訳=中山元(光文社古典新訳文庫)P40
016算術の命題が総合的であることの証明
 あまり深く考えない人なら、あるいは「七に五を加えると一二になる」という命題は純粋に分析的な命題であり、七と五の〈和〉という概念から、矛盾律にしたがって導かれると考えるかもしれない。しかしもっとじっくり考えてみると、七と五の〈和〉という概念に含まれているのは、二つの数を一つの数に結びつけるということだけであり、二つの数を結びつけた数がどのようなものであるかは、まったく考えられていないことが分かる。一二という概念は、わたしがたんにあの七と五という数を結びつけたときに、すでに考えられているものではない。だからわたしがこのような可能的なものにすぎない和という概念をどれほど分析してみたとしても、その概念のうちに一二という数に出会うことはないのである。[一二という数をみいだすためには]この七と五という概念の外にでる必要があるのであり、そのためにはこの二つの概念の片方に対応する具体像[=直観]を助けとするのである。たとえば自分の五本の指や、(ゼーグナーが著書『算術』で示したように)五つの点などを助けとして、この具体像として与えられた五つの単位を、七という概念につけ加えるのである。
 つまりわたしはまず、七という数字をとりあげてみる。そして五という概念にたいして、五本の指の具体像を助けとして利用することで、それまで五という数を構成するために利用していた単位を、五本の指を手掛かりにして、七という数に一つずつ加えてゆくと、一二という数が生まれてくるのがわかるのである。七を五に加えるべきであるということは、わたしはすでに七と五の〈和〉という概念において考えているが、この和が一二であるということは、この[和という]概念のうちではまだ考えられていなかったのである。だから算術の命題はつねに総合的なのである。このことは、もっと大きな数を考えてみれば、さらにはっきりとする。というのは、わたしたちが自分の概念をどれほど好きなようにいじくりまわしてみても、具体像の助けを借りなければ、わたしたちの概念を分析しただけでは、その和をみいだすことは決してできないのは明らかだからである。


 「七に五を加えると一二になる」という命題は純粋に分析的な命題ではない。
 算術の命題はつねに総合的。
 と言っているみたい。
 でも、この文章自体の意味が分からないのだが。

 なぜ、この部分が気になったのかと言うと、
 ↓『プラトン全集1』「パイドン」訳=松永雄二(岩波書店)P280
(略)一〇が八よりも、〈多い〉ことの原因は、二がそこにつけ加わっているからであり、また、二尺が一尺よりも、〈大きい〉ことの原因は、前者が後者を半分だけ超過しているからである――
と、こう思っていたのだ」
(略)一に一を加えたときに、〈二となった〉のは、加えられたほうの一なのか、それとも、加わったほうの一なのか。あるいは、この、加わった一と加えられた一とが、一方の他方への附加ということに原因して、〈二となった〉のか。それすらそうとは自分には納得できないからだ。なぜって、不思議ではないのか。……このそれぞれが互いに離れてあったときには、そのそれぞれはたしかに〈一〉であって、そのときにはまだ二というものはなかったのだ。それなのに、それらが互いに近づいたとなると、おやいったい、この、集まってきたといううごきが、つまりそれらが互いに近くに置かれたというそれだけのことが、そもそも〈二〉が生ずる原因となったのだろうか?


 ソクラテスのこの部分を思い出して。
 「そのうち分かるだろう」と思ったまま、20年くらい過ぎた。
 カントは、この部分の意味が分かったのか?
 「七という数に一つずつ加えてゆくと、一二という数が生まれてくるのがわかる」
 足し算は時間的な概念、と言っているようだが。
 ただ、これもなんとなく納得できない。
 (カントはソクラテスとは関係なく、ゼーグナーの『算術』から考えたのかも)
 (ゼーグナーって誰よ?)

 これが私の「解くべき問い」の一つ。
 ソクラテスの「1+1=2」。
 (誰か、答えが分かる人がいたら教えて)

↓クリックお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ