「AはBである」という分析判断。
述語Bは主語Aの一要素(一側面)であるから、〈一〉と〈多〉の関係になる。
主語A(〈一〉)の中に、〈多〉(述語B、述語C、述語D・・・)が内包している。
リンゴ(主語A)は、果物(述語B)。
リンゴ(主語A)は、赤い(述語C)。
リンゴ(主語A)は、おいしい(述語D)。
主語は〈一〉で、述語は〈多〉。
「四角は丸い」などのように、主語(四角)に内包していない述語(丸い)は誤謬となる。
(この話はライプニッツ)
(いや、ライプニッツは解説本しか読んでいないけど)
で、帰納法。
↓『ベーコン随筆集』訳=成田成寿(中公クラシックス)P5
一般的に、「帰納」は次のように規定される。「有限個の単称言明から一つの普遍言明へと、すなわち「いくつかの」から「すべての」へと進む推論は帰納的推論と呼ばれ、この推論の過程を帰納という」(チャルマーズ一九八三、『科学論の展開』、二五頁)。つまり、「この鯨は肺呼吸する」、「あちらの鯨も肺呼吸する」、「むこうの鯨も肺呼吸する」といったデータを収集して、よって、「すべての鯨は肺呼吸する」と結論づける推論、一般に「単純枚挙」と呼ばれる推論、が帰納法だと理解されているのである。これは、人々の理解の事実として正しいのかもしれない。しかし、哲学史的な学説の跡づけとしては、完璧なる誤解である。そもそも帰納法はベーコンが根本論理として最初に自覚的に導入した。しかるにそのベーコン自身が、「単純枚挙」による帰納を、子どもじみたものであり、結論はあぶなっかしい、と一蹴しているのである(『ノヴム・オルガヌム』第一巻第一〇五節)。
「単純枚挙」をフランシス・ベーコンは否定する。
でも、じゃあ本当の帰納法とは?というのには、ベーコンは答えていない。
しょうがないから私が答えると、
関連する〈多〉を総合して、未知の〈一〉を再構成するのが、帰納法。
「果物」「赤い」「おいしい」という事象は与えられている。
ここから、「リンゴ」を導き出すのが帰納法という推論。
ただし、それは「蓋然的に正しい」としか言えない。
もしかしたら「イチゴ」かもしれないし。
そして事象(述語)が多くなればなるほど、確度は高くなる。
(もし「すっぱい」が加われば、リンゴではなくイチゴである蓋然性が高くなる)
たとえば、アポロン神殿の様々な神託のパターンから、その内部のロジックを推測するのが帰納法。
こう聞いたら、こう答える、というパターンが、ソクラテスには分かった。
(本当に神のお告げがあるわけでもなく、)
(神官・巫女がテキトーなことを言っているのでもない)
ソクラテスは、始めから「ソクラテスよりも知恵のある者はいない」という答えが出ることを知っていて、
「ソクラテスよりも知恵のある者はいるか?」と尋ねたのだろう。
それはアポロン神殿の神官・巫女が、どのように答えるか、
そのロジックを帰納法によって推測して、問いを考えた。
(神官・巫女も「ソクラテスよりも知恵のある者はいない」という答えは「どうか?」と思ったと思う)
(でも、そう聞かれたら、そう答えるのが決まりだったのだろう)
ソクラテスは、この出来事が自分の哲学の始まりだった、と言っている。
帰納法が哲学の道具(オルガノン)。
アリストテレスの論理学の著作群をまとめて、「オルガノン」と呼ばれているが、
アリストテレスが嫌いなベーコンは、アリストテレスの「オルガノン」に代わる、
「ノヴム・オルガヌム(新しい道具)」を構想した。
(でも肺炎で急死したため、未完成)
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述語Bは主語Aの一要素(一側面)であるから、〈一〉と〈多〉の関係になる。
主語A(〈一〉)の中に、〈多〉(述語B、述語C、述語D・・・)が内包している。
リンゴ(主語A)は、果物(述語B)。
リンゴ(主語A)は、赤い(述語C)。
リンゴ(主語A)は、おいしい(述語D)。
主語は〈一〉で、述語は〈多〉。
「四角は丸い」などのように、主語(四角)に内包していない述語(丸い)は誤謬となる。
(この話はライプニッツ)
(いや、ライプニッツは解説本しか読んでいないけど)
で、帰納法。
↓『ベーコン随筆集』訳=成田成寿(中公クラシックス)P5
一般的に、「帰納」は次のように規定される。「有限個の単称言明から一つの普遍言明へと、すなわち「いくつかの」から「すべての」へと進む推論は帰納的推論と呼ばれ、この推論の過程を帰納という」(チャルマーズ一九八三、『科学論の展開』、二五頁)。つまり、「この鯨は肺呼吸する」、「あちらの鯨も肺呼吸する」、「むこうの鯨も肺呼吸する」といったデータを収集して、よって、「すべての鯨は肺呼吸する」と結論づける推論、一般に「単純枚挙」と呼ばれる推論、が帰納法だと理解されているのである。これは、人々の理解の事実として正しいのかもしれない。しかし、哲学史的な学説の跡づけとしては、完璧なる誤解である。そもそも帰納法はベーコンが根本論理として最初に自覚的に導入した。しかるにそのベーコン自身が、「単純枚挙」による帰納を、子どもじみたものであり、結論はあぶなっかしい、と一蹴しているのである(『ノヴム・オルガヌム』第一巻第一〇五節)。
「単純枚挙」をフランシス・ベーコンは否定する。
でも、じゃあ本当の帰納法とは?というのには、ベーコンは答えていない。
しょうがないから私が答えると、
関連する〈多〉を総合して、未知の〈一〉を再構成するのが、帰納法。
「果物」「赤い」「おいしい」という事象は与えられている。
ここから、「リンゴ」を導き出すのが帰納法という推論。
ただし、それは「蓋然的に正しい」としか言えない。
もしかしたら「イチゴ」かもしれないし。
そして事象(述語)が多くなればなるほど、確度は高くなる。
(もし「すっぱい」が加われば、リンゴではなくイチゴである蓋然性が高くなる)
たとえば、アポロン神殿の様々な神託のパターンから、その内部のロジックを推測するのが帰納法。
こう聞いたら、こう答える、というパターンが、ソクラテスには分かった。
(本当に神のお告げがあるわけでもなく、)
(神官・巫女がテキトーなことを言っているのでもない)
ソクラテスは、始めから「ソクラテスよりも知恵のある者はいない」という答えが出ることを知っていて、
「ソクラテスよりも知恵のある者はいるか?」と尋ねたのだろう。
それはアポロン神殿の神官・巫女が、どのように答えるか、
そのロジックを帰納法によって推測して、問いを考えた。
(神官・巫女も「ソクラテスよりも知恵のある者はいない」という答えは「どうか?」と思ったと思う)
(でも、そう聞かれたら、そう答えるのが決まりだったのだろう)
ソクラテスは、この出来事が自分の哲学の始まりだった、と言っている。
帰納法が哲学の道具(オルガノン)。
アリストテレスの論理学の著作群をまとめて、「オルガノン」と呼ばれているが、
アリストテレスが嫌いなベーコンは、アリストテレスの「オルガノン」に代わる、
「ノヴム・オルガヌム(新しい道具)」を構想した。
(でも肺炎で急死したため、未完成)
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