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デカルト/我思う

 図書館から借りてきた『この一冊で「哲学」がわかる!』を読み終えた。
 もちろん「哲学が分かる」わけでもなく、
 ピックアップした哲学者の概要が書いてある。
 一般に言われている以上のことは書いていない。

 取り上げている哲学者は、
 プラトン、アリストテレス、アウグスティヌス、トマス・アクィナス、デカルト、スピノザ、カント、ヘーゲル、キルケゴール、ヤスパース、ハイデッガー、サルトル、ニーチェ、ヴィトゲンシュタイン、フッサール、ソシュール。

 で、デカルトの「我思う」について。
 ↓『この一冊で「哲学」がわかる!』白取春彦(三笠書房)P101
 すべてのことに疑念を投げかけ、そうしてほとんどの事柄の実在は疑いえるけれども、そのことを考えている自分自身はどうしても疑いえない。だから、自分という存在があると確信したのがデカルトでした。
 しかし、この有名な文句の論理はどこかおかしいところがあります。疑いえないのは、「考えている自分という存在」ではなく、「考えていること」自体のはずです。よって、正しく論理的に述べようとするのなら、
「私は考える。だから、”考え”は存在する」
 となるはずなのです。それなのに、デカルトは考えている自分の存在までをも直観推論してしまったのでした。


 と、ズレた主張をしている。

 「我思う、ゆえに我あり」の前提にあるのは、
 「人間は神によって創られた」というキリスト教の主張。
 それをデカルトは否定している。
 「我あり」の根拠(自分の存在根拠)は、神ではなく「我思う」。

 「神によって創られた」から考え始めるのではなく、
 「我思う」から考え始める。
 (でも、デカルトは聖書を否定しているのではなく、)
 (聖書の正しさは信じている)
 (キリスト教会とは解釈が違うのだろう)
 (どちらが正しいのか?となると、)
 (イエスの解釈と同じほうが正しい)

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法の限界

 『アゴラ』に、
 秋葉原事件の死刑執行で感じた最大の問題点(2022.07.28)黒坂 岳央
 という記事があって。

 この人が書いている「問題点」とは、
 秋葉原事件のように、現行犯逮捕で冤罪の可能性はないのに、死刑囚を長期収容する意味は?
 というものだろう。

 私としては。
 もし誰かの命令での犯行だった場合、裁判でそれが明らかになるのか?
 計画的犯行だから、その証拠は残さないだろうし。
 (裁判で全てが明らかになる、と思っている人は、)
 (裁判官とか、検察とか、被告を信じすぎ)
 (所詮は人間がやっていること)
 結局、死刑囚が自白しないことには、真実は明らかにならない。
 (拷問で吐かせる、わけにはいかない)

 裁判で、まだ明らかになっていないことがあるなら、
 それを告白するための猶予期間が、死刑囚の長期収容だと思う。
 (もちろん、あるかどうかわからない「真相」のために、)
 (いつまでも刑の執行を延ばすこともできない)

 前回の「冤罪事件」と同じ結論だが、
 真相があったとしても、それを告白しないのであれば、死刑囚の死刑は妥当、
 とするのが法の限界ではないか?

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冤罪事件

 ↓『産経新聞』毒物カレー事件24年 被害者家族が現場に献花(2022/7/25)
平成10年に和歌山市園部の夏祭り会場でヒ素が混入されたカレーを食べた4人が死亡し、63人が急性ヒ素中毒になった毒物カレー事件は25日、発生から24年を迎えた。地元住民らでつくる「カレー事件被害者の会」の副会長、杉谷安生さん(75)は現場に献花し、犠牲者の冥福を祈った。
事件では、殺人罪などに問われた林真須美死刑囚(61)の死刑が平成21年、最高裁で確定。弁護人は無罪を主張し、再審請求を申し立てている。
(略)


 キーファー・サザーランドのドラマ『サバイバー: 宿命の大統領』のエピソードで。
 国民から手紙をもらって、それに対応することがあるらしい。
 (フィクションなのか、本当にそういう制度があるのか知らないが)

 で、無実なのに死刑執行が迫っている、という話。
 真犯人は死刑囚の息子で、死刑囚は息子をかばっている。

 その真相を大統領が知っても、
 死刑執行を止めるには、死刑囚が真相を訴えないといけない。
 冤罪であっても、大統領に死刑を止める権限は無い。らしい。
 このドラマの見解が正しいのか分からないが。

 このドラマのように、
 冤罪なのに、真犯人をかばっている場合は、どうすればいいのか?

 もちろん一番良いのは、
 死刑囚が真犯人を公表。
 真犯人が自供。
 真犯人が罰を受ける。
 なんだが、その最も良い選択をしない死刑囚がいるのも現実で。

 法としては、
 真犯人をかばっている場合での死刑執行は妥当、
 となるのだろうか?

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観念論

 ソクラテスが示唆するように、
 観念(イデア)はアプリオリ。

 で、経験によって、塊魂(観念)から概念となって分離していく。
 経験とともに概念が増えていく。

 ↓『ウィキペディア』タブラ・ラーサ
感覚論において魂は外部からの刺激による経験で初めて観念を獲得するとされており、その経験以前の魂の状態。

 「経験で初めて観念を獲得する」としているが。
 私の場合は、経験で獲得するのは概念。

 初めはタブララサ(白紙)ではない。
 言語化できない(概念化できない)観念がある。

 あぶり出しの文字のように、
 白紙に見えて、実は文字(観念)が書いてある
 火であぶること(経験)によって、文字が出てくる(概念)。
 あぶり出しが想起 (アナムネシス)。

 じゃあ、観念はアプリオリとは言うけど、
 いつ獲得したのか?

 物心がつく前の経験。
 私の用語で純粋経験。
 言葉(概念)を獲得する前の経験。
 言葉がない、とは概念がない、ということ。
 (赤ちゃんも動物も)

 概念がない=観念のみ、とは無意識の世界。
 無意識ゆえに、物心がつく前の記憶はない。
 アプリオリ(先験的。先天的ではない)に観念を獲得する。
 (赤ちゃんは言葉がないから概念がない)
 (純粋経験による観念だけ)
 (動物も言葉がないから、概念はない)
 (観念的なものはある?)
 (赤ちゃんが見ているのは、概念がない、観念だけの世界)

 (概念がない観念だけの世界だから「イデア界」と呼んでもいいが、)
 (プラトンはそういう意味でイデア界とは言っていないから抵抗がある)
 (プラトンが言うイデア界は、)
 (一般に言われているように、空の上にあるであろう世界)

 (普段、私たちが見ているモノは、人間の認識形式で加工された現象)
 (赤ちゃんは、その最初には人間の認識形式はなく、)
 (ゲシュタルト崩壊した(無意味の)世界を見ているのではないか?)
 (それは(カントが知りえないと言う)「物自体」の世界)
 (赤ちゃんや動物は、物自体の世界に生きている)

 (これが、科学の客観性の根源)
 (ソクラテスが言うように「最初に全てを学んでいる」)
 (全てを学んでいるのは、概念がない世界においてだから、その記憶がない)
 (無意識において全てを学んでいる)

 (その観念の世界にアクセスするには、帰納法が必要)
 (人間の認識形式を排除しなければならない)
 (現象ではなく、本質を見ないといけない。帰納法で)
 (現象は(人間の認識形式で見ているから)意味の世界)
 (本質(物自体)は無意味の世界)

 (帰納の能力を獲得するには、)
 (ソクラテスであれば「フィロソフィ」)
 (仏教であれば「(感情の根源である)我をなくせ」)
 (本質を見るには、人間の認識形式が邪魔になる)

 (ベーコンは「アリストテレスの自然学は、自然を人間の認識形式に当てはめているからダメ」と)
 (たとえば新型コロナウイルスで、「狡猾なウイルス」みたいなことを言うのは、)
 (人間の認識形式に当てはめている。非科学的)
 (ウイルス(自然)は、そのようにはなっていない)

 (物心つく前のことを忘れているのではない)
 (言葉=概念がないから、そもそも認識していない)
 (認識していないから記憶していない)
 (この無意識的な経験を、私は純粋経験と呼ぶ)
 (忘れるも何も、記憶していない)

 (認知症も、ご飯を食べたのを忘れたわけではない)
 (ご飯を食べているとき、「ご飯を食べている」という認識がない)
 (認識がないまま、口を動かしている)
 (認識していないまま食べるから、認知症は誤嚥性肺炎になりやすい)
 (認知症は、自分の行動を認識していない)
 (認識がないのだから、そもそも記憶していない)
 (認知症は物忘れではない)

 純粋経験で観念を獲得し、
 経験で概念を獲得する。

 観念論と経験論を総合すると、こうなる。

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観念

 『デカルトの哲学原理』(スピノザ)の冒頭を読んでいたら。
 ん?「観念」の意味が私とは違う、と思って。
 (スピノザはデカルトの「観念」を首肯している)
 『人性論』(ヒューム)も見てみたら、こっちも違う。
 しかもデカルト的な意味でもない。
 これは厄介だな、と。

 ↓『ウィキペディア』観念
観念(英:idea)は、プラトンに由来する語「イデア」の近世哲学以降の用法に対する訳語で、何かあるものに関するひとまとまりの意識内容のこと。元来は仏教用語。
「イデア」は、何かあるものに関するひとまとまりの意識内容を指し、デカルトによって近世哲学的な意味で再導入された。
定義:
論者によって厳密にいえば定義は異なる。プラトンのイデアは、客体的で形相的な元型のことであるが、デカルトによって、認識が意識する主観の内的な問題として捉えなおされたため、イデアは、主観の意識内容となり、以降、この意味での用法のものを観念と訳している。


 デカルトが「観念(イデア)」を違う意味で使い出した、と。

 デカルトというと「心身二元論」。
 「精神」と「物体」に分けた。

 私の目の前にカレンダーがあるが、これを頭の中で思い浮かべることができる。
 この頭の中にあるカレンダーが、デカルトの「観念」。
 でも、このデカルトの「観念」は、私の用語では「表象」であって。

 いや、でもデカルトの「心身二元論」も悪くはない。
 「精神世界」「物質世界」という考え方は画期的だったし。
 (そういう考え方が、それ以前にはなかった)
 (ただ、その後の独我論や唯物論となるとワケワカラン)

 (私の用語では、「精神世界」ではなく「内面世界」)
 (「精神」と「魂」を分けたいから)
 (スピノザが言うように「精神を知ることはできない」)

 感情は、肉体という物質に属する。
 ご飯を食べたら勝手に胃酸が出るように、感情も肉体(物質)によって勝手に(機械的に)出てくる。
 そのデカルトの『情念論』が、スピノザの『エチカ』でも取り入れられている。
 (私の「内面世界」を「心的世界」としないのは、)
 (心は肉体に属するものか?という問題が出てくるから)

 ↓『語源から哲学がわかる事典』山口裕之(日本実業出版社)P206
デカルトは、物体とは単に空間を占めるだけのものであって、色や味などといった大きさ以外の性質は、物体そのものに属するのではなく、人間の側の感覚が生み出すものだとした。

 カントはデカルトを批判しているけど、
 デカルトのをカントはパクっている。

 デカルトでは、自分の身体で「精神世界」と「物質世界」が分けられているが、
 カントでは、物自体(物質世界)に現象が貼り付けられている。
 人間の認識形式(時間・空間)によって、(物自体が加工されて)現象が現前している。
 (カントは読んでいない(何も覚えていない)けど、)
 (カントの後継者を自任するショーペンハウアーの理解がこんな感じのはず)


 なんか基本的な用語が分からなくなって、
 図書館から『語源から哲学がわかる事典』を借りてきた。
 まぁ一冊だけ借りるのもなんだから、簡単に読めそうなものとして目に留まった、
 『この一冊で「哲学」がわかる』白取春彦(三笠書房)も借りてきた。
 (簡単に読めそうというだけで、内容には期待していない)

 ↓『この一冊で「哲学」がわかる』白取春彦(三笠書房)P15
哲学者は、絵にたとえると、抽象画のようなものです。独特の手法で混ぜ合わせた絵の具、独特の構図、独特の視点で描かれた観念の絵なのです。
 ↓『この一冊で「哲学」がわかる』白取春彦(三笠書房)P28
無は無と名づけられた概念として存在しているからです。

 ここで使われている「観念」「概念」は、私の使い方と同じ。
 これが普通でしょ?私は間違っていない。
 デカルトの「観念」のほうが特殊。

 で、↓この「塊魂」が観念で、
katamari.jpg
 塊魂(観念)から(赤の矢印の)「こけし」が分離するのが概念化。

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