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ウクライナ侵攻

 ↓『ミリタリーレビュー』ウクライナの主要情報総局の代表は、「戦争の決定的な時期」の新しい条件を呼びました(2022年8月27日)
(略)
ここで、ウクライナの GUR の代表である Vadym Skibitsky が、注目に値する声明を発表しました。彼によると、ウクライナでの戦争の「決定的な時期」が近づいています。Skibitskyによると、来たる秋はそのような時期になるはずです.
スキビツキー:
自然と気候条件によると、これは9月から10月です。その後、悪天候、11 月、そして冬が訪れますが、戦いは続きます。

Skibitsky 氏によると、9 月には多くのことが決定される予定です。
これは、スキビツキー氏自身が 2 か月足らず前に「8 月に予定されている抜本的な変更」を発表したにもかかわらずです。しかし、ウクライナ軍は「根本的な変化」をもたらしただけでなく、ドネツクの橋頭堡であるペスキ村の中心的なつながりを失い、ニコラエフとハリコフ地域の領土も失いました。
(略)


 ウクライナの「反転攻勢」は遅れるみたい。
 スウェーデンとフィンランドのNATO加盟が進んでいないから?
 スウェーデンとフィンランドがNATOに加盟したら、バルト海を封鎖してロシアを挑発するのか?
 (カリーニングラードの陸路と海路を封鎖するのかも)

 ↓『ミリタリーレビュー』ポーランドは、ウクライナとの共同国家を創設する計画が「ドイツの土地」の喪失につながることを恐れている(2022年8月26日)
ロンドンの支配下にあるキエフとワルシャワの連合は、以前はドイツに属していたポーランドの土地の喪失につながる. ポーランドの出版物 Koserwatizm.Pl によると、ベルリンは英国側の影響力の強化を容認するつもりはありません。
ウクライナとポーランドの共同国家を創設するという考えは現在英国によって推進されており、ゼレンスキーとドゥーダはロンドンからの命令に基づいて行動し、すべての設置を行っています。 現在、イギリスはウクライナとポーランドを完全に支配しようとしており、アメリカ人を彼らの領土から追い出しています。 キエフとワルシャワは、さらに多くの「緊密な協力」を確立することを目的とした多くの協定に調印しました。
しかし、そのような行動は、以前にポーランドを経済的に支配し、数十億ユーロを注ぎ込んだドイツを本当に喜ばせるものではありません。 ウクロポリナと呼ばれる新しい国家の出現はベルリンの計画には含まれておらず、これは第二次世界大戦後にポーランドに移管されたポーランドの土地の喪失につながる可能性があります.
(略)
ドイツが第二次世界大戦の結果として失われた土地を取り戻すことを計画しているという話はかなり長い間続いており、それらはゼロから生じたものではありません. ベルリンは長い間、すべてのドイツの土地を統一する計画を立てており、東ドイツの領土を併合することでそれらの一部を実施することさえありました. 今度はポーランドに寄贈された領土の番です。
(略)


 ゼレンスキーは、この紛争が終わったら、外国にある別荘で暮らすんでしょ?
 「スポンサー」との契約であるプーチンの失脚さえ達成できれば、ウクライナがどうなっても構わない。
 だから支援の見返りにポーランドに西ウクライナをプレゼントする。

 で、上記記事では、ポーランドが西ウクライナを獲得すると、
 ドイツが「第二次世界大戦でポーランドに奪われた土地を返せ」と言ってくる、と。
 そういう展開、あるの?

 ↓『ミリタリーレビュー』ウクライナ国家安全保障・国防会議長官:ロシアとの戦争の準備は2019年に始まった(2022年8月26日)
ゼレンスキーが新しいミンスク協定への署名を拒否した後、ウクライナ政府は2019年にロシアとの「大きな戦争」の準備を開始しました。これは、ウクライナの国家安全保障・国防評議会のオレクシー・ダニロフ長官によって述べられました。
2019 年 12 月、ウクライナは、ロシア、ドイツ、フランスが提案した条件でドンバスでの紛争を解決することを拒否しました。その後、ロシアとの衝突の脅威がより現実的になりました。ダニロフによれば、キエフでは戦争が避けられないことを理解していたので、戦争に備えるために全軍を派遣した。

国家安全保障防衛評議会の長官は述べた。
私たちは戦争の準備をしており、ゼレンスキー大統領がパリでロシア、フランス、ドイツが私たちに提供した条件に同意しなかった2019年12月8日、9日以降、準備が始まりました。控えめに言っても、彼は言った-「いいえ、友達、ミンスク-3はありません。私たちは国を守ります」。翌日、彼らはロシア連邦との大戦争が避けられないことに気づきました。

ダニロフ氏は、準備は秘密裏に行われたと強調し、政府は国民を敵対行為の可能性にさらすつもりはなかったので、「ロシアによる攻撃」に備えることができた. それは、半年にわたる敵対行為の後、ロシア軍が「依然としてドンバスを奪うことができなかった」という事実から生じた秘密の訓練でした。
(略)


 この記事で言われている「2019年12月」は、
 ↓『BBC』ウクライナとロシアが停戦合意 ウクライナ東部の紛争で(2019年12月10日)
ウクライナとロシアは9日、ウクライナ東部で続いている戦闘を2019年末までに「完全かつ包括的に」停戦することで合意した。
ロシアのウラジーミル・プーチン大統領とウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領はこの日、パリのエリゼ宮で会談し、停戦を決めた。この会談は、フランスのエマニュエル・マクロン大統領とドイツのアンゲラ・メルケル首相が仲介した。
(略)
停戦の進捗については向こう4カ月をかけて協議を重ねていく方針という。
(略)
ゼレンスキー大統領は、ウクライナ経由で欧州に輸出されるロシア産ガスについても、通過関税について対立があったものの、問題が「取り除かれた」と述べ、これについても合意が近くまとまるはずだと話した。
一方で、親ロ派武装勢力の撤退や、ウクライナ分離独立派の支配地域における選挙の実施などについては合意に至らなかった。
プーチン大統領は、反政府勢力が支配するウクライナ・ドンバス地域を「特別な地位」にするため、ウクライナ憲法の改憲を求めた。
ゼレンスキー大統領はこれに対し、平和と引き換えに領土の一部を手放したりはしないと記者団に話した。
フランスのマクロン大統領は、「きょうの会談では両国の違いが明らかになった」と述べた。その上で、「奇跡の解決策は見つからなかったが、前進はしている」と付け加えた。
(略)


 ↓『時事通信』【地球コラム】ロシア軍演習で一触即発
(略)
 根本にある問題は、先述のミンスク停戦合意だ。これはドンバス地方で地方選を実施し、親ロシア派に「特別な地位」(高度な自治権)を認めるのが柱。しかし、ウクライナにとっては、分離独立状態に法的根拠を与えて固定化することに他ならない。独仏の働き掛けで合意したものの、歴代のポロシェンコ前政権も、ゼレンスキー政権も、履行には二の足を踏んできた。
 コメディー俳優出身のゼレンスキー大統領は2019年の就任当時、ウクライナで紛争が長期化する中、国民の厭戦(えんせん)気分を背景に、和平、すなわち停戦合意の履行に積極的だった。実際、地方選実施に向けてドイツのシュタインマイヤー元外相(現大統領)が提示していた打開策も受け入れた。
 ところが、親ロシア派の分離独立を認めず「主戦論」を唱える民族派の猛反発に直面。そもそもポピュリズム(大衆迎合主義)的な政治家であり、ウクライナが抱える経済、汚職、紛争といった難問を解決できず、当初7割台だった支持率が2割台に落ち込むと「民族派の人質」(ロシアの識者)となり、自らも失地回復を唱えるようになった。
(略)


 2019年に停戦合意をしたが、ウクライナの民族派(ロシアが言うネオナチ。アゾフ過激派)の反発があって、その後の協議は進展しなかった。
 でもオレクシー・ダニロフによると、停戦合意のサインをしたときから、ウクライナは裏で戦争の準備を始めた、と。
 ウクライナ政府の高官が口を滑らせた。

 ↓『ミリタリーレビュー』ワシントン・ポスト:ゼレンスキーは、来たるロシアの特別作戦についてウクライナ人に警告しなかったとして批判されている(2022年8月19日)
ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は、ロシアの特別軍事作戦についてウクライナ国民に警告しなかったとして、西側諸国から厳しい批判に直面している。 これは、アメリカの新聞ワシントン・ポストが書いたものです。 このような出版物はこれが初めてではないことに注意してください。
以前、出版物は、アンソニー・ブリンケン国務長官が2021年秋のロシアの軍事計画についてゼレンスキーに語ったと書いた. その後、ゼレンスキー自身が出版物とのインタビューで、彼は今後の特別作戦を知っていると述べたが、人々にはそれについて話さなかった.
ウクライナ当局は、理解できない理由で、来たる紛争に向けて社会を準備し始めませんでした。 ロシアとの国境およびドンバス共和国との国境にある入植地からの民間人の避難は開始されませんでした。 ウクライナの一般市民にとって、隣国の軍事作戦は完全な驚きであり、ゼレンスキーは今日批判されています。
以前のゼレンスキーが「国民的英雄」として認識されていたとすれば、少なくともこれは、西側とウクライナの両方のマスコミによって作成されたウクライナ大統領のイメージであり、現在、キエフ政権の首長はますます頻繁に批判されています。 彼は、特にロシアと同盟軍の進行中の攻撃と、西側でのエネルギーと経済の危機の高まりを背景に、「批判のない」人物ではなくなりました。
ゼレンスキーの活動に関する重要な資料を公開することで、西側のマスコミは、ウクライナのプロジェクト全般ではなく、特にこのプロジェクトのトップマネージャーとしてのゼレンスキーが「リーク」する可能性について、世論を徐々に準備し始めている可能性があります。 すべての西側エリートグループがウクライナ大統領の人柄と活動に満足しているわけではない。特に、ゼレンスキーと彼が支配する企業が登場する、いわゆるパナマ関係文書の公開後はなおさらだ。


 ロシア軍のウクライナ侵攻前に、アメリカはウクライナに警告していた。

 ウクライナが2019年から戦争の準備をしていたのなら、
 ロシア軍によるウクライナ侵攻は、ゼレンスキーの望むところだった。
 ロシア軍が侵攻するように、ウクライナはロシアを挑発した。
 だからゼレンスキーは、アメリカの警告を無視した。

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ウクライナ侵攻

 ↓『アゴラ』ドイツ産業の皆さん、日本へようこそ(2022.08.24)手塚 宏之
(略)
“Welcome to Japan!”  自動車、機械、鉄鋼、化学といった産業集積とその輸出競争力を国の強みとしてきた日独産業間の競争において、従来ドイツ産業に構造的な恩恵を持たらしてきたロシアのパイプライン天然ガスをドイツが失った後、日本から見てある意味でフェアな産業競争環境がもたらされると考えることもできる。
(略)


 EUが拡大することによって、ドイツは東欧の安い労働力を獲得してきたが。
 エネルギーにおいても、
 日本の場合は、船での輸送。
 ドイツはロシアからパイプラインで輸入。
 パイプラインのほうがコストがかからない。
 ドイツは安いエネルギーを使うから、製品価格を抑えることができた。

 日本は「失われた30年」と言われるが、30年前に何があったかと言えば、
 ベルリンの壁崩壊→ソ連崩壊。
 これによって日本は、ズルいドイツとの価格競争を強いられてきた。
 失われた30年の原因は、自由貿易の拡大だったのに、
 「規制改革」とか言って、外国に資産を奪われてきた。
 (失われた30年は、国内問題ではない)
 (世界秩序の問題)
 (国内問題ではないのに、外国の代理人は規制改革を推進する)

 ロシアや中国が望む「多極世界」になれば、この失われた30年も終わるのでは?
 (ベルリンの壁崩壊→ソ連崩壊は、アメリカの意図によるもの)
 (パパ・ブッシュの「ニューワールドオーダー」)
 (現代の格差拡大はNWOが原因だが、当時、現代の状況を予見してたか?)
 (というと、疑問)
 (多極世界は、パパ・ブッシュのNWOに代わる、NWO)

 ↓『田中宇の国際ニュース解説』潰されていくドイツ(2022年8月23日)
(略)
ウクライナに勝つ見込みがあるなら、エネルギー危機が続いてもウクライナが勝つまで我慢する戦法もあり得る。だが、ウクライナが勝つ見込みはない。戦況の逆転にはNATO軍の参戦が必要だが、それをすると人類破滅の米露核戦争になる。現実的には今後、ロシアがウクライナの東部と南部を占領して住民投票などをやって分離独立とロシアへの併合を促進していき、残ったウクライナ西部はポーランドの傘下に入って国家機能を何とか維持し続ける。ウクライナ政府は、移住してきたポーランド人に自国民と同等の権利を与えている。ウクライナ人のかなりの部分(3割ぐらい?)がすでに、ゼレンスキー政権の弾圧政治と戦争を嫌がって欧州やロシアに移住してしまっている。その穴埋めとしてポーランド人が招き入れられている。
(略)


 武器の供与や破壊工作では、戦況は変わらない。
 やはり、誰でも「戦況の逆転にはNATO軍の参戦が必要」と考えるだろう。
 「誰でも」というのは、ゼレンスキーも同じ。
 ゼレンスキーが勝利を信じているのは、NATOの参戦があるからだと思う。

 ポーランド。
 ウクライナが勝っても負けても、西ウクライナはポーランドの支配下になりそう。

 あと、ダリア・ドゥギナの暗殺。
 ロシアでもウクライナでもない、第三国の犯行に思える。
 アメリカやイスラエルなどの「西側諸国」ではあっても、ウクライナではない。
 ウクライナが、ダリア・ドゥギナや父親のアレクサンドル・ドゥーギンを殺害する意味はない。
 ドゥーギンを殺そうとして間違ってドゥギナが殺されたのではなく、
 初めからドゥギナが目標であったとすれば、
 ドゥギナは第三国の諜報員だったのでは?
 ロシアにバレたら困るから、口封じで殺された。用済み。
 (ロシアは「犯人はウクライナ人」と言うが、)
 (実行犯がウクライナ人であっても、その雇い主は第三国)
 (第三国はカモフラージュのためにウクライナ人を雇うだろう)

 ↓『ミリタリーレビュー』キエフの米国大使館は、アメリカ国民にできるだけ早くウクライナを去るように促した(2022年8月24日)
キエフのアメリカ大使館は、かなり長い休憩の後、市民に訴えを出しましたが、これはむしろ警告と呼ぶことができます。ウクライナ領内の米国市民へのアピールは、「ロシアは、今後数日間、民間のインフラストラクチャーと政府施設を攻撃する取り組みを強化している」と述べています。
アメリカ合衆国大使館の資料によると、そのような情報は国務省に表示され、キエフのアメリカ外交使節の従業員に転送されたとされています。
「ウクライナ領土の治安状況は非常に不安定で、いつでも悪化する可能性があるため」、米国市民はできるだけ早くウクライナを離れるよう求められています。
(略)


 そろそろウクライナの「反転攻勢」が始まるんじゃないの?

 ↓『スプートニク』日本大使が首都キーウ入り 業務再開見据え安全確認(2022年8月23日)(c)KYODONEWS
外務省は22日、ロシアのウクライナ侵攻を受け、隣国ポーランドで業務をしていた松田邦紀駐ウクライナ大使が同日、ウクライナの首都キーウ(キエフ)に入ったと発表した。3月に一時閉鎖した日本大使館の将来的な業務再開を見据え、安全状況などを確認する。
(略)


 それなのに日本大使館は業務再開の準備だって。
 キエフは西ウクライナだから安全?

 ↓『ミリタリーレビュー』ゼレンスキーは、アゾフ過激派に対する法廷で全世界に真実を明らかにすることを恐れており、「交渉を拒否する」と脅している(2022年8月22日)
キエフでは、ウクライナの「独立」の日である8月24日に、アゾフ過激派(*ロシアで禁止されているテロリストグループ)の裁判が始まるかもしれないという話題が広まっています。この話題は、キエフ政権のトップであるゼレンスキーによっても触れられました。
(略)
キエフ政権にとって、この場合、重要なのはアゾフの戦闘員自身ではなく、裁判が開かれ、被告がキエフ政権の犯罪について全世界に証言し始めることです。これを防ぐために、数週間前、ゼレンスキー政権は、捕獲された「アゾフ」*を破壊することを決定しました。その後、エレノフカの裁判前拘留センターでのMLRS「ヘイマーズ」からのウクライナ軍の攻撃の後、50人以上の過激派が殺され、70人以上が負傷しました。しかし、何百人ものアゾフ過激派*が間もなく法廷に出廷し、法廷での彼らの証言は国際社会の財産となるでしょう。その後、キエフが交渉するかどうかは、ゼレンスキーと彼の海外スポンサーの仕事だ。そして、交渉能力のない政権との交渉を誰が必要としているのか。


 アゾフ過激派の裁判が始まるらしい。
 ウクライナ側の犯罪が証言されても、「西側諸国」はそれを信じないで、支援を続けるのか?

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フィロンとデカルト

 ↓『語源から哲学がわかる事典』山口裕之(日本実業出版社)P133
 プラトンとアリストテレスだけでは、西洋世界において哲学がこれほどの隆盛を見ることはなかっただろう。自然科学が誕生することもなかったに違いない。哲学(現代の区分で言う「自然科学」を含む意味での「哲学」)が盛んに論じられたのは、それがキリスト教と一体的に展開したからである。(略)
 実際のところ、キリスト教が成立した西暦紀元前後に、当時の文明の中心地であった地中海沿岸地方(ローマやギリシア、現在のトルコやエジプトなど)において、プラトンやアリストテレスの思想がそれほどメジャーだったわけではない。プラトンがアテネに設立した学園(アカデメイア)も、アリストテレスの学園(リュケイオン)も、存続はしていたようだが、そこで彼らの文献が研究されていたわけではなかった。アカデメイアは懐疑主義的な思想の拠点となっており、リュケイオンはかなり影の薄い存在だったようである。プラトンとアリストテレスが西洋思想の二本柱となるのは、それがキリスト教神学の理論化に大いに利用されたことによる。


 ↓『語源から哲学がわかる事典』山口裕之(日本実業出版社)P134
 キリスト教へのギリシア哲学の導入は、イエス本人が活動していた同時代、ユダヤ教徒であったアレクサンドリアのフィロン(BC.25頃-AD.45頃)にさかのぼる。彼は、プラトンの『ティマイオス』という作品で論じられた宇宙創造論を、聖書の「創世記」の解釈に援用した。

 ↓『語源から哲学がわかる事典』山口裕之(日本実業出版社)P136
 もちろん、プラトンの言う「神」はユダヤ-キリスト教の神ではない。しかし、先述のフィロンはこの『ティマイオス』をモデルにして、聖書の創造神話を解釈した。

 ↓『語源から哲学がわかる事典』山口裕之(日本実業出版社)P137
 フィロンはユダヤ教徒だが、イデアについてのこうした見方は、ユダヤ教にではなく、キリスト教哲学に受け継がれていった。

 フィロンという人物は知らなかったので書き写してみた。

 ↓『語源から哲学がわかる事典』山口裕之(日本実業出版社)P138
 デカルトは「近代哲学の祖」などと言われるが、こうして概観してみると、彼の思想が極めてプラトン的-アウグスティヌス的(つまり、古代哲学的)であることは明らかであろう。プラトンのイデア論は、キリスト教と一体化して、西洋思想の中心で受け継がれてきたのである。

 で、デカルトを批判しているライプニッツは、アリストテレス的-トマス・アクィナス的。
 ライプニッツは、アリストテレスを聖書で援用している感じがする。
 (ライプニッツのメインはアリストテレスだと思う)
 でもそれがうまくいっているようには思えない。
 アウグスティヌス-デカルトのほうが、正しく聖書を読んでいると思う。
 (アウグスティヌスとデカルトのメインは聖書)

 ↓『語源から哲学がわかる事典』山口裕之(日本実業出版社)P169
(略)スコラ哲学は、プラトンとアリストテレスとキリスト教の合作である。その世界観こそが、西洋哲学の世界観、西洋的な世界観の根幹にある。
 しかし、こうした世界観は、近代の入り口において、大きな転換点を迎える。哲学史の教科書などでよく言われているとおり、デカルト以降、哲学の主要なテーマが存在論から認識論へと転換したのである。
(略)
 つまり、デカルトの思想が重要である、あるいは衝撃的でさえあるのは、それが「神と人との逆転」とでも言うべき、哲学史上の大きな転換点となっているからである。


 以前、デカルトの「我思う」を説明したが。
 「我思う、ゆえに我あり」を字面どおり読めば、そうなる。
 我の存在根拠は(神ではなく)我思う。

 まぁ↑これは自分で考えたもので、一般的にはどうなんだ?と思っていたが、
 大学教授も言っているのだから、一般的にもそうなんだろう。

 デカルトの世界観。
 ↓『語源から哲学がわかる事典』山口裕之(日本実業出版社)P182
(略)物体(身体)とは「大きさがあるもの:res extensa(extended thing)」、ないし「物体的つまり延長的実体:substantia corporea sivi extensa」である。(略)
 日本語で「延長」というと、野球の「延長戦」のように時間を先延ばしにすることのような印象を受けるが、デカルトの言うres extensaとは、時間ではなく「空間を占めるもの」ということである。
 デカルトにとって時間の推移とは、瞬間ごとに神が新たな空間を創造することなのである。これを「瞬間創造説」と言う。(略)
 こうしたデカルトの世界観は空間中心主義である。つまり、デカルトは空間を先に立てて、空間によって時間を説明しようとした。デカルト的な世界観においては、時間というものがなくなってしまうのである。


 アウグスティヌスの「流れない時間論」を踏襲している。

 ↓『語源から哲学がわかる事典』山口裕之(日本実業出版社)P182
 先に、20世紀の哲学者ベルクソンが、「存在とは運動だ」という見方を取っていることを述べた。実はベルクソンがそうした議論をするのは、デカルト的な空間中心主義を批判するためであった。デカルトは空間によって時間を説明しようとした。ベルクソンはその向こうを張って、時間を先に立て、時間によって空間を説明しようとする。つまり、空間とはいわば止められた時間だと考えたのである。時間が空間の連続のように思えるのは、止めどなく流れゆく時間のある一瞬をグラフ上に書きとめることによってである。「存在の本来のあり方:reality」を直観するならば、時間が止めどなく流れていることが見える。時間は、瞬間ごとにカチカチ刻まれて進んでいくのではない。紙の上に書かれたグラフは止まっているように見えるが、何年もたてば紙やインクが色あせることからわかるように、実はそれらも少しずつ変化し続けている。紙の上のグラフが止まっていると思うのは、いわば錯覚なのである。

 ベルクソン。
 ぜんぜん分からないから書き写してみた。
 グラフを例に出しているが、これもさっぱり分からない。

 ↓『語源から哲学がわかる事典』山口裕之(日本実業出版社)P189
 アリストテレスは、「われわれが何かについて考えるとき、われわれの知性は考えている対象物に成り代わっている」と考えた。要するに、われわれの知性とは、思い出や想像や言葉などに、次から次へと成り代わっていくものだということである。
 デカルトのmensとは、そういう意味での知性である。つまり、mensやmindは、「思い出や想像や言葉に次々と成り代わっていくもの」なのである。
(略)
 さらに、デカルトの考えでは、われわれが目の前にある物を見たり聞いたりしているとき、われわれの心はその物に成り代わるのである。たとえば、われわれがリンゴを見るとき、われわれはリンゴそのものを見ているのではなく、われわれの心が成り代わった「リンゴのイメージ」を見ているのである。あるいは、ある物を「見る」とは、心がその物に成り代わることである。
(略)
 デカルトがmensと並んで用いる「精神」という言葉についても見ておこう。フランス語のespritに対応するラテン語spiritusは、「息をする」という動詞spiroの名詞形で、羅和辞典では「微風、におい、呼吸、生命、霊、精神、聖霊、アルコール」などの訳語が付けられている。ここでいう「聖霊」とは、キリスト教の正統教義である「神とイエスと聖霊の三位一体」の聖霊である。(略)
 spiritusに対応するギリシア語は「プネウマ:(略)」で、これまた「風、息、霊、霊感、聖霊」である。プシューケーの元々の意味が「風、息」だったように、プシューケーとプネウマは語源も意味も似た言葉である。(略)
 (略)『神学大全』を見てみると、spiritusの形容詞spiritualisは、物体的(=身体的:corporalis)の反対語であり、主には物質的な身体を持たない「天使」を指すために使われるが、身体から分離したものとしての人間の魂を指すためにも使われる。
 そこでデカルトは、「精神:esprit」という言葉を、「身体から分離している」という側面を強調するために採用したのである。


 アリストテレスの
 「われわれが何かについて考えるとき、われわれの知性は考えている対象物に成り代わっている」
 が分からない。
 そうなってる?


 他にも書き写したところはあるが、コメントのしようがなくてブログには書かない。
 (ヒュームについてコメントしたいが、まだ読んでいないし)
 (アウグスティヌス派の私としてはトマス・アクィナスを批判したくなるが、宗教が絡むし)
 (他人の宗教に口を出すのは控えたい)

 この本は1700円で、お手ごろ価格。
 なかなかの良書だと思う。

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概念論

 ↓『語源から哲学がわかる事典』山口裕之(日本実業出版社)P109
 アリストテレスは、まずはbeingを「ある」と「~だ」の二つに大きく分け、「ある」の方が「本来のbeing」で、「~だ」の方はそれに従属するものとした。「~だ」としてのbeingには10種類ある。それらは個物が何であるかを示すか、個物のあり方の一部分を取り出すかしたもので、いずれにせよ物としては存在しない。
 他方、プラトンは、個物をその種類にしているイデアの方が「本来のbeing」で、個物の方は「仮の現れ」にすぎないと考えていた。つまりアリストテレスは、プラトンの立場に真っ向から反対しているのである。こののち、西洋存在論(being論)は、”~ is B”を本来のbeingとするプラトンと、”A is”を本来のbeingとするアリストテレスという、二つの立場を行ったり来たりしながら展開することになる。


 私はプラトンの立場。
 ”A is”のほうは、スピノザが言う「知りえない精神」だから。
 現れるのは、”~ is B”のほう。
 ただし、ライプニッツはアリストテレスを支持しているみたい。

 ↓『語源から哲学がわかる事典』山口裕之(日本実業出版社)P116
 ここで、「形」を意味するギリシア語の「エイドス」には、「種類」という意味もあったことを思い出していただこう。要するにアリストテレスの言いたいことは、個物は一つひとつ微妙に異なった形をしているが、にもかかわらず。そうした形はいずれも「その物の種類を示すような形」だということである。たとえば、犬は一匹一匹異なった形をしているが、そうした形はいずれも同じ「犬の形」である。個物が個物として成立するのは、素材が「その物の種類をしめすような形」になったときなのだ。「種類」は、プラトンの言うイデアのように個物から離れたところにあるのではなく、個物自身において、その「形」として存在しているのである。
 こうした考え方は、「形(イデア)が物とは別の場所にある」とするイデア論よりはマトモだと思われる。しかしこれだけでは、「素材よりも形の方が〈本来の〉beingだ」ということの理由がよくわからない。


 個物と素材と形。
 一つ前の引用にある「「ある」の方が「本来のbeing」」の「ある」というのは、個物。
 そしてまた、「素材よりも形の方が〈本来の〉beingだ」の「形」は、”~ is B”。
 なんか混乱している。

 形を”~ is B”とする私が間違っているのか、
 アリストテレスが混乱しているのか、
 アリストテレスを解釈したスコラ哲学が間違っているのか、
 この本の著者である山口裕之が間違っているのか。

 ↓『語源から哲学がわかる事典』山口裕之(日本実業出版社)P123
 アリストテレスは、『カテゴリー論』では「本来のbeing」は個物であって、「それが何であるか」は物としては存在しないと考えたが、『形而上学』では、「それが何であるか」こそが「本来のbeing」であると主張する。「本来のbeing」が物として存在することであるなら、「それが何であるか」も物として存在するのではないのか。でもアリストテレスは、『カテゴリー論』ではそうではないと言っている。いったいどっちやねん。

 普遍論争について。
 ↓『語源から哲学がわかる事典』山口裕之(日本実業出版社)P122
普遍とは「複数のものに当てはまるもの」のことである(略)。この定義からして、犬や人間などといった名前が普遍であることは明らかである。(略)問題は、その名前に対応するもの(「それが何であるか」そのもの)が世界の側、ないし物の側に存在するかどうかという点にある。

 ↓『語源から哲学がわかる事典』山口裕之(日本実業出版社)P123
 通常の哲学史では、この論争における立場は、「実在論:realism」、「概念論:conceptualism」、「唯名論:nominalism」の三つに分類される。
 実在論とは、普遍が、個物とは別に「もの」(ラテン語:res。英語のrealの語源)として存在するという立場である。一般に、プラトンのイデア論がこの立場の典型だと考えられている。
 ただし、これまで見てきたように、プラトンは、イデアを「”~ is B”という意味でのbeing」だと考えたのであって、イデアが「物としてある」(=”A is”という意味でのbeing)と考えたわけではないから一般的な見方はいささか不適切である。この本でも、これまでイデア論を「イデアが個物とは別の場所に存在するという思想」などと要約してきたが、実はこれはアリストテレスによるプラトン解釈に従ったのであって、プラトン哲学についての唯一絶対の解釈というわけではない。


 私は概念論の立場。
 ソクラテスもこれだと思う。
 ただし、プラトンはアリストテレスが言うように実在論なんだろう。

 アリストテレスの時代では、ソクラテスとプラトンは別人であり、
 ソクラテスが実際に行なった対話と、プラトンがソクラテスを主人公として創作した著作の区別がついていただろう。
 (アリストテレスが批判するソクラテス対話篇『ティマイオス』は、私のジャッジでもプラトンの著作)

 しかしプラトン研究では、ソクラテス対話篇をすべてプラトンの著作としてしまって。
 異なる思想が混ざっているソクラテス対話篇を、
 ソクラテス/プラトンで切り分けるべきところを、
 「プラトンの思想の変化」として、前期・中期・後期と分けている。
 (ほぼ同時代のアリストテレスは、ソクラテス対話篇をそんなふうには読まないだろう)
 ソクラテスとプラトンでは思想が違うのに、それを一つにして解釈しているのが「ソクラテス問題」。

 だから根本にはソクラテスの思想があって、
 それをプラトンとアリストテレスが別の解釈した。
 この解釈に両者の対立がある。
 で、私はプラトンを哲学者だとは思っていなくて、
 アリストテレスがプラトンを批判するのは当然だと思う。

 ↓『語源から哲学がわかる事典』山口裕之(日本実業出版社)P123
 概念論とは、普遍とは「概念:concept」だという立場である。個物の中に潜在的に(デュナミスとして)含まれている概念を、人間の知性が把握することで明らかにする(エネルゲイアにする)という考えで、アリストテレスの立場とされる。
(略)
 個物から概念を取り出すことは、「抽象:abstract(ラテン語:abstraho)」である。これは「ab:離れる方向に」+「traho:引き出す」という組み立てである。


 「個物から概念を取り出す」の「個物」を「観念」にすれば、私のイデア論。
 ソクラテスもそういう意味で「イデア」という言葉を使ったと思う。
 私がソクラテス対話篇を読んで、そう考えたように、
 アリストテレスもそうだったのでは?

 ↓『語源から哲学がわかる事典』山口裕之(日本実業出版社)P124
 最後に唯名論は、普遍とは世界や物の側に対応するものを持たない単なる名前にすぎないという立場である。”A is B”におけるAもBも、物とはかかわりのない単なる言葉だと考える立場だと言ってもよい。「存在するのは個物だ」とする立場を突き詰めて、「存在するのは個物だけだ」と考えると唯名論になるので、普遍に対する立場を整理する上では便利な概念だが、実際問題として、純粋にこの立場に立つ哲学者は中世から近世に至るまでほとんどいないと思われる。
 一般にウィリアム・オッカム(1285-1347)の思想が唯名論だと言われるが、実際に彼の書いたものを読んでみると、「普遍とは概念だ」と考えていたようである。
(略)
 通常の哲学史で概説される「普遍論争」は中世哲学の実態にあまり即しておらず、むしろ実態は、上記の分類で言うなら「概念論」の枠内での論争であったように思われる。


 ついでに唯名論がどういうものか、書き写してみたが。
 唯名論は思弁的なもので、ほとんど意味はないらしい。
 意味があるのは概念論だけ。

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超越論的

 ↓『語源から哲学がわかる事典』山口裕之(日本実業出版社)P112
 カントは、中世哲学の「超越的:transcendent」という言葉に対して、自らの哲学を「超越論的:transcendental」であると主張した。カントが言うには、「超越的」とは人間が経験できる範囲を超えていることである。従来の形而上学が考察してきた「神」や「人間の死後の魂の存続」や「人間の自由」などがそれである。経験の範囲を超えているので、それらのことがらについての説が正しいとも間違っているとも証明することはできない。
 対して、「超越論的」とは、経験を可能にしている前提条件(アプリオリなもの)についての探求のことである。経験の前提条件は経験の中には含まれず、その意味では「経験を超越しているもの」ではあるが、こちらの方はわれわれの感性(感覚能力)や悟性(理解能力)や理性(推論能力)のあり方を分析することによって探求できるし、それを自分がやる、としたのである。


 私の「純粋経験」は、経験の前提条件であり、
 「経験の中には含まれず、その意味では「経験を超越しているもの」。
 だから私がやっていることも「超越論的」。
 形而上学が認識論に行くのも分かる。
 (でも「超越論的」なんて言葉を使おうとは思わない)

 でも私の考えとカントが同じかと言うと?
 そもそもカントを読むのが面倒くさい。

 ↓『語源から哲学がわかる事典』山口裕之(日本実業出版社)P256
(略)「アプリオリ」と「超越論的」はどう違うのか。
 たとえば数学の知識はアプリオリであるが、超越論的ではない。数学は、われわれの経験する世界を成立させるために必要な知識である。「リンゴが3個ある、1個食べたら1個残る」といった理解が成立するためには、あらかじめ数学について知ってなくてはならない。


 3-1=1。
 なにか深い意味でもあるのか?
 それはともかく、続き↓
 他方、「どのようなものがアプリオリな認識なのだろうか」と探求するのが超越論的哲学であり、そうした探求の結果、「数学はアプリオリな認識だ」と知ることが超越論的認識である。しかも、そうした探求は、アプリオリな仕方で、つまり、経験に先立つ論理的な規則に従って行なわれなくてはならない。つまり、超越論的とは、「〈アプリオリなものとはどんなものか〉を、アプリオリなものに従って探求すること」なのである。
 (略)「メタ」というギリシア語の前置詞が、後世、「~を超越した」「それ自身についての反省という高次のレベルの」といった意味で使われるようになった(略)。アプリオリの「メタ」レベルが「超越論的」だ、と言ってもよいだろう。カントの『純粋理性批判』は、理性によって理性自身の分析を行なうというメタ的な試みなのである。


 なんか、分かったような分かんないような。
 とりあえずメモとして書き写した。

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